2009年1月13日火曜日

【国内マスメディア】 新聞崩壊

記者クラブという「鎖国」制度 世界の笑いものだ
(連載「新聞崩壊」第1回/フリージャーナリストの上杉隆さんに聞く)
2008/12/30

日本の新聞社が一大危機を迎えている。広告激減に部数落ち込み。そして、なにより読者からの信頼が揺らいでいる。新聞は崩壊してしまうのか。連続インタビューで「新聞が抱える問題点」を様々な角度から浮き彫りにする。第1回は、「談合体質」が問題視され、世界でも珍しい「記者クラブ」について取り上げる。「ジャーナリズム崩壊」などの著書があり、ニューヨークタイムズ東京支局取材記者などを経て、現在フリーのジャーナリストである上杉隆さんに話を聞いた。

首相会見に記者クラブがNOを出す

日本では珍しくない「記者会見で権力側に事前に質問を渡す記者」は「世界では例がありません」と話す上杉隆さん。「そうしたことが読者に少しずつばれて来ている」
――記者クラブによる「厚い壁」を感じたときは、どんなときですか。

上杉 取材対象へのアクセス権を記者クラブという特殊な組織が独占していることが、そもそも問題なのです。

私は国会議員の秘書としてニュースを出す側の立場として記者クラブの内側にいたこともあり、また、質問権のない海外メディアというオブザーバーの記者としても、そして現在のフリーランスとして、クラブのまったく外側から、というようにさまざまな立場から多くの事例を見てきました。

小渕恵三首相時代のエピソードが印象に残っています。当時、NYタイムズの東京支局は、小渕首相へのインタビューを考えていました。議員秘書時代のつてを通じ申し込むと、小渕首相からOKの返事がありました。事務所側から、内閣記者会(記者クラブ)への告知を求められ、単に首相動静用の日程連絡というつもりで知らせました。すると、記者クラブからは「単独インタビューは認められない」という答えが返ってきました。

当然、支局長は怒りました。仮に首相側が拒否したというなら記事は書ける。単に「首相はインタビューを拒否した」と書けば良い。しかし、首相はOKしたが、政府機関でも何でもない記者クラブという組織が拒否したのでインタビューはできなかった、と説明しても、ニューヨークの読者は誰も理解できない。アメリカをはじめ世界各国には記者クラブなどないのですから。

――日本の記者クラブを外国メディアの記者はどう見ていますか。

上杉 世界の笑いものです。以前は韓国にも同種の記者クラブがありましたが、既になくなりました。私が調べた限りでは、記者クラブに近い制度があるのは、日本とアフリカのガボンだけです。アジアも南米も、もちろんそんな制度はなく、日本にきた記者たちは驚いています。

――どんな点に驚くのでしょうか。

上杉 例えば、政治家取材のときのメモ合わせ。政治家が何を話したかを各社が確認し合う行為です。こんなことを海外メディアでやれば即クビです。当然盗用の疑いを持たれますし、仮に、偶然でも似た記事が出ることがあれば、必死にそれが偶然であることを証明しようとします。ところが日本では、他社と同じような記事が出ていると安心する、というまったく逆のマインドが罷り通っています。

しかし、記者クラブ内だけで情報を独占し、横並びの記事を出すという今のやり方は、もう限界に来ています。ひとつにはインターネットの影響があると思います。以前は、政治家から聞いたそこそこの情報を1週間ぐらい置いて、いろいろ加味して記事として出す、ということも可能でした。しかし、今では国会議員自身がブログやHPで、早ければ瞬時にドンドン詳しい話を書いてしまう。官邸の中に入った議員の情報は1次情報ですから、当然詳しい。すると新聞記者がその情報をもとに記事をすぐに書いたとしても翌朝新聞が届くころには、ネット読者はもうその話を知っている、という事態になっています。
――芸能界でも、芸能人本人が最初にブログで発表してしまうため、芸能関係記者も困っているようです。

上杉 そうですね。国政だけでなく、いろんな所で同じようなことが起こっていると思います。

――記者クラブ側の言い分はどうなのでしょうか。加盟したいと言っても、一定の常駐時間を要求される例もあるようですね。様々な案件の中から実際にどの話で記者会見を設定するのか、といった調整をクラブがやっているのに、そこに外部の人間が入るのは「フリーライド」ただ乗りではないか、という不満もあるようです。

上杉 政治記者の究極の仕事は権力の監視です。だが、役所などの中にいて、「ただ見ている」だけでは監視とは言いませんし、何の意味もありません。権力を監視するということは、役所内クラブに何時間いるか、ということとは関係ありません。また、様々な案件への対応という点は、日本の新聞社が、本来通信社がやるワイヤーサービスと、新聞社がやるべき評論・分析、調査報道の仕事とを分けずに全部やっていることから発生している問題です。

発生したことを単にストレートニュースとして報じるのは、海外では通信社の仕事です。閣僚クラスへのぶら下がりなんかもそうです。APやロイターなどに任せています。そしてNYタイムズやワシントン・ポスト、ル・モンドなどの新聞社は、ジャーナリズムとしての記事などに力を注ぎます。この役割分担は、世界の新聞がやっていることです。

日本の全国紙の幹部と、新聞社と通信社の役割分担について話したことがあります。彼らは、共同(通信)や時事(通信)は信用できないと言います。では、自社に通信社の子会社を設立した上で、記者の大部分を移したらどうか。通信記者はより安い給料で雇えるし、新聞社としては人件費の面で身軽にもなる、新聞社本来の仕事に集中できる。こう提案すると、いいアイデアだ、秘策中の秘策だね、と驚くので、「いえ、通信社と新聞社の分業システムは、全世界でやってる話です」と答えたんですが。全国紙の記者は大雑把にいって今の10分の一の1社300人もいれば十分でしょう。

――いいアイデアだと思っているのに、全国紙はなぜ踏み切れないのでしょうか。

上杉 そんなことは無理だ、できない、と彼らは言います。しかし、現在の状況はすでにできる、できない、を議論している段階ではなく、やるか、やらないのか、になっているのです。まだなんとかなる、と勘違いしているのは、日本の新聞社では、編集・記者出身者が経営陣に加わるというゆがんだシステムが影響していると思います。いわば経営の素人が会社を経営している訳ですから。アメリカでは編集と経営は分離されています。優秀な記者が経営に携わろうと思ったら、MBA(経営学修士)を取るなどして会社に入りなおさなくてはなりません。経営と編集は別の職業なのです。
民主党はすでに記者会見を非クラブ加盟社外にも開放

――記者クラブ制の改革の面でも、経営サイドが熱心に取り組んでいるようには見えませんね。

上杉 先ほども触れた通り、日本の新聞社の経営者は記者出身です。彼らは記者クラブにどっぷりつかった上で、それなりに活躍をしてきました。クラブにもいろいろありますが、ライバル会社同士なのに仲良しというのも珍しくありません。すると、彼らにとっては、自分の成功体験・人生と記者クラブが重なってくるのでしょう。クラブを否定することは、自分たちの人生を否定することにつながる、という感覚なんでしょうね。

――記者クラブ制に問題があるのでは、ということは以前から漠然とは言われていました。著書の中で今回、具体的に問題点や現状を指摘されました。クラブの内側の人たちからの反応はありましたか。

上杉 若い記者の人たちから大きな反響がありました。自分もクラブ制度に疑問を感じていると。OBの人たちからは、「オレたちの頃よりひどくなってるな」という感想が寄せられました。昔はメモ合わせなんてしてなかったそうです。こちらから言わせれば同じ穴の狢なのですが。なによりも一定の年齢より上の現役の人たちは「上杉、許せない」と言っているようです。直接の抗議はないのですが、私の記事や著書に対し不満を持っている人は相当数いるな、と実感しています。逆に、政治家や官僚からは「よく書いてくれた」という反応が多いです。思うところがあるのでしょう、「あいつら、やっぱりおかしいだろ」と言いたかったようです。

――以前、首相の会見を記者クラブ主催ではなく、官邸主催にしたらどうか、と官邸側に持ちかけたことがあるそうですね。

上杉 官邸主催の話は、うまくいきませんでした。しかし、実は民主党は、岡田克也幹事長時代から記者会見をクラブ加盟社以外にも開放しています。それまで国会内控え室でやっていた会見を、党本部でするようになったのです。雑誌記者やフリーも入ることができます。ところが、私の知る限り新聞はこのことを1行も報じていません。長野県や鎌倉市でクラブが開放されたときは大騒ぎしたのにもかかわらずです。民主党番記者でも知らない人が多く、私が教えるとびっくりしていました。もちろん民主党職員でも知らない人がいたくらいです。

一度開いたものを閉じると相当な批判があります。よって、民主党は、もう閉じられないのです。総選挙の情勢はまったく分かりませんが、仮に民主党が政権を取った場合、民主党が記者会見をクラブ会員だけに限定する、今の記者クラブシステムと同じでやる、というのは難しいと思います。問題は、権力側から記者クラブ開放を実現されてしまう形になることです。そんなことになる前に、自分たちの力で自らクラブ開放をすべきではないか、と言ってるんですが。

――内閣記者会の反応はどうですか。

上杉 無視ですね。問題が存在してないことになってますから。

――今後、記者クラブはどうなっていくと予想しますか。

上杉 約150年前の日本は鎖国状態でした。地政学的に可能だったわけですが、交通手段の発達により、結局、日本は鎖国体制の放棄をせざるを得なくなりました。他業種が世界標準という荒波にもまれる中、これまで日本のメディアは日本語というバリアに守られてきました。だがそうした日本語という障壁による鎖国システムも限界に来たようです。ネット上の翻訳ソフトの発展には目覚しいものがあり、すべて正確、という訳にはいきませんが、「大体の意味は分かる」というレベルには達していて、情報によってはそれで十分だ、という場合もあります。

また、米大統領選のときオバマ候補へ世界中から寄付が集まった背景の一つには、SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)のフェイスブックの活用がありましたが、これは英語だけでなく、アラビア語や韓国語などほとんど全ての国の言葉で変換して参加できるような仕組みになっています。

こうした現実をみていると、記者クラブが存続する可能性はどんどん狭まっています。日本語というバリアが崩壊に向かっていると感じています。そのときになって外資メディアが乗り込んできて、仕方なく記者クラブを開放するよりも、自ら変わる方が生き残る可能性が高いと思います。新聞社が経営的にやっていけなくなる、という危機が到来する中、記者クラブだけが残っても意味はないですからね。実際にどこか1社が倒れて、というショック療法で記者クラブ制度が崩れていく、というのは十分考えられます。

メモ:記者クラブ制度
1890年、帝国議会の取材を求める記者たちが「議会出入り記者団」を結成したのが始まりとされる。官庁や警察、地方自治体など各地に存在し、日本新聞協会加盟の新聞社やテレビ局が加盟している。記者会見などを主催し、加盟社以外の会見への出席は拒否するなどしている。日本新聞協会の「編集委員会の見解」によると、記者クラブは、公的機関などを継続的に取材するジャーナリストたちによって構成される「取材・報道のための自主的な組織」だ。さらに「情報開示に消極的な公的機関に対して、記者クラブという形で結集して公開を迫ってきた歴史がある」と振り返っている。「『開かれた存在』であるべき」「外国報道機関に対しても開かれており」などともうたっている。これに対し、上杉隆さんは、著書「ジャーナリズム崩壊」の中で、「ほとんどブラックジョークと見紛うほどである」と批判している。

上杉隆さん プロフィール
うえすぎ たかし 1968年、福岡県生まれ。NHK報道局やニューヨークタイムズ東京支局の取材記者を務める。鳩山邦夫衆院議員の公設秘書も経験。現在フリーのジャーナリストとして主に政治分野を取材している。著書にベストセラーとなった「官邸崩壊」や「ジャーナリズム崩壊」などがある。

北京の私服警官だらけの光景 新聞はどこまで伝えきれたのか
(連載「新聞崩壊」第2回/佐野眞一さんに新聞記者再生法を聞く)
2008/12/31

新聞の危機は経営面だけではない。インターネット上には、マスコミを揶揄する「マスゴミ」という表記があふれる。「おまえたちはゴミ」という掛詞なのだが、そこには記者たちへの不信感がにじみ出ている。相手の話を正しく聞き、意図を読み、そして伝える……。そんな「力」を記者たちが取り戻し、信頼を得るにはどうしたらいいのか。「新聞記者再生法」について、「カリスマ」などの著書があるノンフィクション作家の佐野眞一さんに聞いた。

記者は偉そうに見える、と読者から反発

「調査報道もさえない。いい印象は残っていない。ずいぶん昔の(朝日新聞の)『木村王国の崩壊』はよかったけど」と話す佐野眞一さん
――新聞が、経営的にも読者からの信頼という側面でも危機を迎えています。新聞記者の評判が悪くなったのはなぜだと思いますか。

佐野 例えばテレビでよく見かける、麻生首相の周りに金魚のウンコみたいに張り付いている若い番記者たち。一番悪いのは、どうも彼らは偉そうに見える。偉そうになってしまったのが、そこはかとなく伝わってくる。映像を見ている人からすれば、波風の立たない片言隻句を集めてるだけなのに、なんであんな態度なのか。そんな反発があると思いますよ。
永田町の噂話から一歩踏み出して、衆院解散の時期をつかんだとして、そんなに偉いことじゃない。ほどなく分かることだし、それをちょっと早く報じたからと言って、読者にしてみれば「あっそう」といった程度のことだろう。
――しかも、今回新聞は「10月解散」とかずいぶん解散時期を間違えて報道しましたね。いろいろと言い分はあるのでしょうが。

佐野 振り回されたんでしょうね。普段から特定の政治家に影響されちゃって、過剰な信頼を寄せている。そうした程度の情報なんだろうな、と読者には分かっちゃう。
――個々人の記者が偉そうにしている訳ではないのでしょうが、そう見えてしまうということですね。

佐野 そう、そう見えてしまう。記者たちが言葉を失ってしまうような厳しい局面の中で何をどう伝えるか、という訓練をしていないことが関係しているのではないか。切った張ったの事件や火事、災害の現場で、例えば子どもを亡くした母親を前にすると、記者は言葉を失うだろう。しかし、それを伝えるために苦労して編み出して言葉にする、そんな訓練をしっかり積んでいなければいけないと思う。記者教育の原点です。
――全国紙では、地方である期間警察を担当させています。

佐野 ルーティンとして取りあえず地方で何年かやってこい、という程度なのではないでしょうか。事件事故を担当しさえすればいい、という訳ではなく、言葉を失う、という状況に真っ正面から向き合うかどうか、なんです。そんなこと記者が一生懸命やっても評価は高くない、というのも問題点です。社会部が政治部より偉い、とかそういうことを言いたい訳ではない。訓練しておかないと、いざという時にゴリッと現実をえぐり出してそれを咀嚼することができないのです。
――ご自分の実体験の中で感じた新聞記者への不満はありますか。

佐野 例えば、単行本になった「東電OL殺人事件」は1997年に起きました。昼はエリートOLだが夜は売春をしていた39歳の渡辺泰子という女性が、渋谷ホテル街の一角で殺害された。ネパール人が逮捕され、1審は無罪、控訴審は逆転有罪無期懲役の判決が出た。上告は棄却され、再審請求中だ。新聞報道は事件発生後、ほどなく弱気になった。被害者名が匿名になり、詳報もなくなった。会社名も出なくなった新聞もあった。
実名か匿名かは難しい問題です。しかし、便宜的になんとなく面倒だから、といった安易な理由で1人の人間を「W」とかの記号にしていいのか。私は悩みながら実名で書いた。そうした悩む力がないと書く力は育たない。新聞は悩むことを避けてはいないか、と感じた。私は冤罪事件と見ているが、新聞は高裁判決以降の動きを十分に伝えていない。再審請求の話をいろいろ調べた上できちんと扱ったところは皆無に等しい。
何を聞くか何を見るか、の感度が衰えている
――新聞記者を「再生」し、読者の信頼を取り戻すには具体的にどうしたらいいのでしょうか。

佐野 新聞記者の使命とは何かを改めて考え直すべきだ。テレビやネットがどんどん速報する中、論評の力を磨く必要がある。それには常に歴史観を意識し、企画力をつけていかなければならない。今度出した本「目と耳と足を鍛える技術―初心者からプロまで役立つノンフィクション入門」(ちくまプリマー新書)では、読む力の大切さを訴えています。文字を読むだけでなく、人の気持ちや危険を読まなければならない。人の言っていることを正しく聞き取り理解して、それを伝える―これができれば少々の困難は乗り越えることができるのです。
もっとも、読む力は普通の人にとっても大事なことで、根源的な身体能力の一部だと思う。新聞記者たちにとっては、読む力は一層大事なはずなのに、衰えてしまっている。北京五輪の開会式取材でも感じたが、何を聞くか何を見るか、の感度は、常に訓練してないと磨かれない。具体的方策、というのはなかなか難しい。読む力、歴史観を常に意識して訓練すること、そして会社がそうした努力と結果をきちんと評価することが必要だと思う。
――論評力と歴史観の関係をもう少し詳しく教えて下さい。

佐野 例えば、「カリスマ」で書いた中内功(正しくは右のつくりは「刀」)さんのダイエーが2004年、産業再生機構に入れられてとどめを刺された。これを当時の新聞は拡大路線のつけがきた、とか誰でも言える近視眼的な論評しかできなかった。そう単純ではないと思います。米国の力がどこか背後で働いた、戦後経済史上最大のドラマとも言うべき動きで、まさに「歴史が動いた」瞬間だった。フィリピンでの戦争体験をもつ中内さんにとっては2度目の「敗戦」でもあった。こうした歴史観を持っていないと論評力がつくはずがない。
――先ほど話に出た北京五輪の開会式で感じられたことは。

佐野 拍手の音をちゃんと聞き分けた報道は見受けられなかったように思う。演出がすばらしい、とかそんな程度だった。すごい拍手だったのはタイペイ(台湾)のときだった。やっとオレたちの偉さが分かったか、という訳だろう。パキスタンの時も大きかった。パキスタンが中国の「敵」インドと敵対しているからで、敵の敵は味方だという心情だろう。逆に胡錦涛(国家主席)への拍手はブッシュのときより弱かった。これは人気がないな、と感じた。こうした耳の感度を持ちうるかどうかも大切だ。雑然としたさまざまな音の中でどこを聞くか、という問題です。
――どこを聞くか、ということはどこを見るかにも通じますね。

佐野 そうです。聞く感度、見る感度、これをもってないと目の前の光景を見ているようで見てないことになる。北京の私服警官だらけの光景を、制約はあったろうが、新聞はどこまで伝えきれただろうか。
佐野眞一さん プロフィール
さの しんいち 1947年、東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経てノンフィクション作家に。1997年、「旅する巨人」で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。著書に「巨怪伝」「だれが『本』を殺すのか」「甘粕正彦 乱心の曠野」「沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史」など。

「変態記事」以降も毎日新聞の「ネット憎し」変わっていない
(連載「新聞崩壊」第3回/ITジャーナリスト・佐々木俊尚さんに聞く)
2009/1/ 1

毎日新聞が自社の英文サイトに「変態記事」を掲載していた、いわゆる「WaiWai事件」では、ネットユーザーが広告主に抗議の電話をする「電凸(でんとつ)」と呼ばれる行動が相次ぎ、同社の経営に大きな影響を与えた。事件後も、同社はWikipediaの記載内容を誤って報じるなど、「ネットに対する姿勢に変化がみられない」との声も根強い。「WaiWai事件」とは何だったのか。この事件を通じて見える新聞社とネットとの関係を、同社OBのITジャーナリスト、佐々木俊尚さんに聞いた。

――今回のWaiWai事件を考える時の論点はいくつかあると思いますが、その一つが、広告を狙い撃ちした「電凸」です。「電凸」を実行したのはいったい誰なのでしょうか。

佐々木 「毎日新聞のクライアントが誰か」というのは、紙面を見ればすぐに分かりますし、実際、200社以上に抗議の電話が入ったようです。「誰かが抗議ビラをつくってPDFにしてアップロードする」といったことが組織的に行われたのは、おそらく日本では初めてのことではないでしょうか。何故あそこまで大きくなったのか、びっくりしています。
「ネット世論」は、明らかに「普通の世論」とオーバーラップ

「ネット世論と一般世論はオーバーラップする」と語る佐々木俊尚さん
――影響力は、実際のところどのくらいあったのでしょう。

佐々木 毎日のウェブの広告は、ほぼ全滅しました。ただ、「毎日.jp」に出稿されている単体の広告が1つずつストップした訳ではありません。「毎日.jp」は、基本的にはヤフーの(広告配信サービスの)アドネットワークに取り込まれていて、ヤフーに対してスポンサー側から「毎日はアドネットワークから外してくれ」という要請があったようです。毎日新聞はヤフーの大事な提携パートナーですし、新聞業界では一番緊密な関係にある。ヤフー側も、かなり悩んだようです。なおかつ、1社だけ外すというのは前代未聞です。結局「クライアントの要求には応えないといけない」ということで、「毎日.jp」への広告は一斉削除、ということになりました。
――「広告ゼロ」の期間、結構長かったですね。2、3か月ぐらいでしょうか。

佐々木 6月終わりから始まって、8月いっぱいぐらいでしょうか。ウェブだけではなくて、本体の紙の方にも影響が出ました。ウェブの広告では、「被害額は年間で数億」というレベルですが、「毎日への広告は止めてもいいんだ」という傾向が広がってしまったのが大きい。すでにナショナルクライアントからすると、「もう出したくない」という思いが強くありました。朝日などと比べて、広告効果も見込めない。そういう状況で、WaiWai事件は「これ幸い」ということで、出稿をやめる格好の口実になった面があります。
――では、何故「電凸」が起きたのでしょう。その原動力はなんでしょう。「書き込みしているのは、ほんの一部の層」という指摘する声もありますし、「あんなものは大したことない」という評論家もいます。

佐々木 様々な論点が錯綜しているように思います。「『荒らしは無視してもいい』というブログを書くときのガイドラインが誤って普及して『ネットからの抗議行動も無視していい』と誤解されてしまったことに加え、インターネットに世論なんか存在しないと思われてしまっていることがあるでしょうね。「ネットなんてフリーターや引きこもりがやってるものだ」ぐらいの認識しかない。そこが決定的に間違っています。
すでに2ちゃんねるの平均年齢は30~40代。2ちゃんねるがスタートしたのが99年なので、当時の利用者が30ならば、もう40代近い。当然、彼らがみな引きこもりということはあり得なくて、2ちゃんねる上で「世論」として見られるのは、おそらく「まっとうな会社員で、技術系の人」というイメージです。具体的には、「IT系企業で係長やっている30代」といった人が中心なのではないでしょうか。そう考えると、「ネット世論」は、明らかに「普通の世論」とオーバーラップしてくる。そう思いたがらない人も多いですが…。
20~30代の若手記者までネットの悪口を言っている
――今回の「電凸」も、数から言っても「一部の人でやっている」というのは考えづらいですよね。

佐々木 WaiWai事件について、2ちゃんねるにはスレッドが230ぐらい立ちました。書き込みにして23万ぐらい。「一部の人が書いている」というのは、根拠がなさ過ぎる。ミクシィにも波及しているし、ブログにも広がっている。その読者も含めると、相当な数にのぼります。大手メディアではほとんど報道はされませんでしたが、インターネットを頻繁に利用する人は、大半が知っています。WaiWai事件を「毎日新聞低俗記事事件」と書いたら「そうじゃない」と怒られたこともありました。「あれは日本女性に対する侮辱であって、単なる低俗な記事を書いたということではない」、と。この事件は、本当に多くの人の怒りを呼んだんです。
――「『電凸』は威力業務妨害だ」といった指摘もありますね。

佐々木 そもそも、それを「威力業務妨害」だと発想するのが理解不能ですよ。だって、消費者運動の一種じゃないですか。実際に物を壊すとかであれば、威力業務妨害ですが、「電話をして抗議する」というのは、1970年代から消費者運動として行われてきたことです。
――2ちゃんねるの利用者層とは逆に、新聞の読者層についてはいかがですか。

佐々木 新聞の側が、読者の年齢層を上げてしまっています。元々、新聞では「標準家庭」という言葉が以前は使われていて、これは40歳ぐらいで専業主婦の妻と子供二人のいるサラリーマン家庭をイメージしたものです。そういう人たち向けに新聞を作っていたわけですね。ところが、若い人が新聞を読まなくなって、90年代ごろから読者の高齢化に付き添うようにして、新聞の中身も老化してしまうようになった。
その結果、中心読者層が60-70歳代になっていて、知らない内に、書く側も、それに合わせてしまっている。私は47歳ですが、(自分が毎日新聞に在籍していた時の)同期の記者に会うと、「何でそんなに老けた考えしてんの?」と、ビックリすることが多い。みんな「世の中が悪くなった」とか言いたがる。自分が理解できないモノは全部ダメなものだと考えてしまっていて、「ネットが悪い」「いまの若者はだめだ」と言いたがる。そんなもの、単なる老人史観でしかありません。
――新聞社の人は、「2ちゃん・ネット=悪いやつ」というイメージを持っているんでしょうね。

佐々木 新聞業界の人からは、「ビジネスとしてはインターネットとつきあっていかなければならないのはわかっているが、生理的にはどうしても受け入れられない」という考えが伝わってきます。
――毎日新聞は、特にその傾向が強いと思いますか?

佐々木 不思議なのは、ネットをよくわかっていない50代の記者が「ネットはけしからん」というのならともかく、20~30代の若手記者までネットの悪口を言っていることです。WaiWai事件以降、様々な地域面のコラムでネットの悪口が書かれるようになって、明らかに社内に「空気」ができているのだと思います。どう見ても、明らかに若い記者が書いている。毎日新聞は「ネット憎し」の空気で埋まってしまっている。
「うちの会社で起きたら、震え上がりますよ」
――毎日新聞側からすれば「不当に攻撃された」と思っているということですね。一方で、ネット側の毎日新聞に対するとらえ方は変わったでしょか?

佐々木 WaiWai事件が起こったという事実から受ける印象は変わらないんですが、問題は対応の仕方です。例えばお詫びの文章のなかに、「法的措置をとる」と強面で書いてあったり、PJニュースや個人のブロガーにひどい対応をして、そのことを(各メディアに)暴露されたりとか。今回のWikipediaの誤報の件でも、訳の分からないお詫びが紙面に出て、書かれた本人がWikipediaのノートで「毎日の記者から、こんなひどいこと言われた」と暴露している。こんなことがあると、ネットの人間は「毎日は、心底我々を憎んでいるんだな」と思ってしまう。一番びっくりするのは、これまで同様なことが起きているのに、また同じ誤りを繰り返すこと。WaiWaiの時にPJニュースとJ-CASTに(対応のずさんさを)書かれて分かっているはずなのに、それが全ての記者にいきわたっていない。毎日新聞はガバナンスが不足している会社なので、そういったことが末端まで行き渡っていないのかも知れない。
――毎日新聞以外の他の新聞社も、「電凸」を恐れているのでしょうか。

佐々木 みんな「うちの会社で起きたら、震え上がりますよ」といいます。だから自社の紙面ではWaiWai事件を大きく報道しなかった。報道したら、自分のところに降りかかると思っています。
――現場の記者は、WaiWai事件をどう受け止めていますか。

佐々木 私がつきあっている30代の記者はメディア担当が多いので、リテラシーの高い人ばかり。彼ら(毎日新聞の記者)からは「毎日新聞はつらい。上に何を言っても理解されない」という声も聞こえます。
――具体的には、どんなところが「理解されない」のでしょう。

佐々木 例えば、双方向性を理解していないこと。言論がフラット化していることを理解していない。「ブログは素人が書いているもの」ぐらいにしか思っていない。1990年代まではインターネットもしょせんはマス媒体をウェブ化しただけで、言論のフラット化なんて起きなかった。だからそのころまでは彼らもネットをある程度は理解していたと思うのですが、2000年代に入ってブログの登場などソーシャルメディアが台頭してくると、言論は瞬く間にフラット化された。しかしこのようなソーシャルでフラットな世界というのは、その場に身を置いている人間ではないと皮膚感覚として理解できないんです。新聞社との人間とブログの人間は、違う言語空間に生きています。ほとんどの新聞社の人間はブログなんて見ていなくて、彼らにとって、ネットとは「アサヒコム」なんです。
トップダウンでやれるところじゃないとダメ
――新聞とネットの距離感はいかがでしょうか。何らかの形で折り合いをつけないといけないと思いますが…。

佐々木 米国でも、オンラインで成功しているのはウォール・ストリート・ジャーナルぐらいですが、一般紙というよりは専門紙です。ニューヨーク・タイムズも減収で、日本の新聞社がこれからどういう方向に進めばいいのかというお手本となるべき新聞社が存在しない。国内に目を転じると、産経新聞のiza!は素晴らしいソーシャルメディアで、現場が「自分の記事が得体の知れないブロガーの記事と並列されるのが許せない」と、猛反対だったなか、社長の鶴の一声で開発が決まったものです。でも現状では新聞社の収益下落を救えるほどのパワーはない。ソーシャルメディアは儲からないんですね。あれが儲かれば、みんなが見習って、日本のメディアがソーシャルメディア化していくんでしょうけれど…。
――産経新聞のネットの取り組みはすごいですよね。

佐々木 ウェブ・ファースト(紙よりも先にウェブに記事が載る)ですし、会見全文を載せたり、裁判のライブ中継があったり…。一度掲載された記事が消えないのも魅力ですね。
――裁判のような長い記事でも、比較的読まれているそうです。

佐々木 その対極を行くのが、(記事読み比べサイトの)「あらたにす」。「サマリーだけウェブに載せて、本文は新聞で」という発想ですが、逆ですよね。ウェブの方が容量は多いんだから。
――今後、新聞社のネットに対する考え方は変わると思いますか?

佐々木 何らかのターニングポイントが来るのではないでしょうか。いまだに「インターネット世論は世論ではない」と思いたがっていますが、インターネット世論が世論だと言わざるを得ない局面が来る。そうなると、韓国みたいな状況がやってくる。一時はネット世論が権力を握るというところまでいったわけですから。ただ、韓国は行き過ぎて、ネット世論が肥大化してしまい、ネットの世論がリアルの世論と直結してしまった。その結果、「ネットで誹謗中傷を書かれて自殺」みたいなケースが頻発しました。さすがに日本のインターネットはそこまでの状況は作り出さないと思いますが、しかしどのような将来が待ち受けているのかは、まだわからないですね。
――毎日新聞にも、何らかの変化が起こる可能性はありますか。

佐々木 トップダウンでやれるところじゃないとダメだと思いますね。古い大きな組織なので、無理でしょう。山本七平の名著「『空気』の研究」じゃないですけど、社内を「空気」が支配しちゃっている。没落のスピードが速すぎて間に合わない(苦笑)心配もありますね。
佐々木俊尚さん プロフィール
ささき・としなお 1961年、兵庫県生まれ。フリージャーナリスト。愛知県立岡崎高校卒、早稲田大政経学部政治学科中退。1988年、毎日新聞社入社。岐阜支局、中部報道部(名古屋)を経て、東京本社社会部。警視庁捜査一課、遊軍などを担当し、殺人や誘拐、海外テロ、オウム真理教事件などの取材に当たる。1999年にアスキーに移籍し、月刊アスキー編集部デスク。2003年に退職。著書に「ウェブ国産力」、「ネット未来地図 ポスト・グーグル時代 20の論点」など。


新聞の20%以上は配達されない 「押し紙」という新聞社の「暗部」
(連載「新聞崩壊」第4回/フリージャーナリスト・黒薮哲哉さんに聞く)

読売1000万部、朝日800万部、毎日400万部……巨大部数を誇る全国紙。それだけ影響力が大きい「証」でもある。しかし、その部数に「暗部」を指摘する声もある。「押し紙」と呼ばれる配達されない新聞だ。全体の2割以上はある、というのが関係者の見方だ。ただ、新聞社側はその存在を認めていない。この問題に詳しいフリージャーナリストの黒薮哲哉さんに話を聞いた。
悲鳴を上げる販売店が増え始めたのはここ5~6年
――押し紙問題(*メモ参照)は、最初はどういうきっかけでいつごろ始まったのでしょうか。
黒薮 はっきりしませんが、かなり昔から続いています。ただ、初期のころは新聞の部数が伸びていたときで、新聞社がノルマとして多めの新聞を搬入しても景品をつければ読者を増やすことは難しくなかった。だから販売店にとってそれほど大きな負担ではなかったようです。
――それが販売店にとって迷惑なものへとその性格が変わったのはいつごろからですか。
黒薮 これもかなり以前からですが、本当にひどくなって悲鳴を上げる販売店が増え始めたのはここ5~6年でしょうか。
――そもそも販売店は、なぜ押し紙を断らないのでしょうか。実際には読者から集めることができない押し紙分の「新聞代」を負担して新聞社に納めないといけない訳で、損をするのではないですか。
黒薮 まず、新聞に折り込むチラシの収入があります。チラシの搬入枚数は、販売店が扱う新聞の総部数に準じるので、押し紙で部数を増やせばチラシの枚数も増える仕組みになっています。ですから押し紙が多ければ多いほど、チラシの収入も増えます。さらに新聞社が販売店へ補助金を支給します。つまりチラシの水増し収入と、押し紙で生じる損害を相殺するカラクリがあるのです。しかし、最近はチラシ収入が激減しています。補助金の全体像は正直つかめていませんが、少なくとも増えてはいないようです。当然、販売店は押し紙の損害を相殺できなくなってきました。それにもかかわらず新聞社と販売店の力関係は、販売店が圧倒的に弱者です。押し紙を断れないのです。それで不満の声を上げる販売店主たちが出始めた、というのが現状です。
――なぜチラシ収入が減ったのですか。
黒薮 複数の要素があります。各戸の郵便受けに直接チラシを入れるポスティング業者の登場も要因のひとつです。フリーペーパーやインターネット広告にチラシの役割を奪われた部分もあります。また、広告主の意識の変化も挙げられます。押し紙の存在が知られるようになり、新聞に折り込んでチラシを配っても本当にそんなに多数の読者の手元に届いているのか疑っている広告主もいます。また、広告による宣伝効果にも疑問を持ち始めているようです。ある不動産業者を取材すると、以前は2色刷りの新聞チラシで相当の効果があったが、近年は7色刷りの手の込んだチラシを配っても反応がない、と嘆いていました。勿論、最近では景気の影響もあります。
――実際にどの程度が押し紙なのでしょうか。
黒薮 全国的なデータはありません。個別の販売店を取材してきた私の推測では、おおむね3~4割は押し紙だとにらんでいます。もっとも地方紙は別です。地方紙の場合、押し紙をしてでも大部数にみせかけ、広告の媒体価値を競い合う必要性は全国紙に比べて薄いようです。
書類の上では押し紙はないことになっている
――4割というのはちょっと多すぎる気もしますが、具体例はありますか。
黒薮 新聞社も販売店名も分かっています。例えば九州地区のある全国紙の販売店では、07年秋に総部数2010部となっているところ、本当に読者に配っていたのは1013部でした。押し紙が997部、5割弱という計算になります。大阪では押し紙が7割という店もありました。首都圏の少ないところでも2割はあるかな、というのが実感です。必要な予備紙を計算に入れても実態は大して変わりません。
――新聞の部数は、日本ABC協会(新聞雑誌部数公査機構)が発表していますが、信頼性がある数字だと見られています。押し紙は見抜けないのでしょうか。
黒薮 ABCの数字は基本的に販売店へ搬入している部数であって、実際に配達されている数字ははっきりしません。協会の役員には各新聞社関係者がずらりと顔をそろえています。広告主側の役員もいる訳ですが、あえて押し紙に抗議して新聞社とことを構えたくはないでしょう。新聞社を相手にするのは大変です。たとえば私は、押し紙問題を取材する過程で、読売新聞西部本社サイドから2件の訴訟を起こされました。押し紙問題が表沙汰になることに相当な危機感を抱いたのだろう、と私は感じています。また、新聞社の関係者でも販売局以外の人は、押し紙の実態はよく知らないのかなという気もします。
――新聞社側は、押し紙の存在を認めているのでしょうか。
黒薮 認めていません。違法行為なので認めるわけにはいかないのでしょう。実際、販売店側が作る書類の上では押し紙はないことになっています。新聞社から、拡販しろというプレッシャーが強く、新聞拡販のノルマが達成できなければ、「怠け者」と見られてつぶされかねません。そんな状況で、自ら「実配部数」欄に押し紙を含んだ数を書き入れて、営業成績をよく見せるケースがあるのです。しかし、新聞社側からすれば、販売店が勝手にウソの数字を書き込み、信頼関係を裏切られたと主張することも可能なのです。
――そうした実態が垣間見える裁判があったそうですね。
黒薮 福岡県・筑後地区のケースです。裁判自体は、読売新聞側から解任された販売店主が地位保全を求めた訴訟です。07年12月、最高裁が読売の上告受理申し立てを退けるかたちで判決が確定したのですが、解任理由とされたのは、先ほど説明した「ウソの実配部数報告」でした。しかし、裁判の中で、「ウソの報告」をするまでに店主を追い込んだ新聞社側の体質が優越的地位の濫用にあたると指摘され、販売店の改廃は認められませんでした。
――今後どうなるでしょうか。
黒薮 チラシの減少も深刻ですが、そもそも読者も減っています。50代以上はともかく、それ以下の世代は本当に新聞を取らなくなっています。読売1000万部云々と言われ始めて10年以上たっていますが、ネットの急速な浸透で、実感として読者はここ最近相当減っているはずなのに、いまだに公表部数については、以前とほとんど同じ数字のまま。ということは、押し紙が増えていると推測できます。販売店側はもうそれを吸収できないのです。現在のような販売システムは、早晩崩壊すると予測しています。
――新聞社はどういう対策を取るのでしょうか。
黒薮 個人経営の販売店ではなく、新聞社側の資本も入った販売会社を増やしているようです。販売会社は、ある意味新聞社と一体の組織なので、押し紙に伴う金の流れも融通が利くようです。
――自主廃業する販売店は増えていますか。
黒薮 増えています。しかし、この業界は意外と縦社会というか、だれそれさんに以前世話になったので顔をつぶせないとか、外部の人間が考えるほど簡単にやめることができる訳ではなさそうです。とはいえ、経営不振のある新聞社では、普通の説得工作では追いつかないほど辞めたがっている店が出ています。このため、押し紙を減らす動きも出ているようです。閉店されてしまうと、後のなり手がいないからです。
<メモ:押し紙問題>
新聞社が、個人経営などの新聞販売店に対し、実際に読者に配達している部数より多くの新聞を「押しつけている」とされる問題。配達時に新聞が濡れたときなどに備える必要な「予備紙」(注文部数の2%まで)数を大きく上回っていると見られている。新聞社にとっては、部数が多いことは紙面広告を取る際に有利に働くことが背景にあると指摘されている。独占禁止法で禁じられている行為だ。
例えばこういう仕組みだ。新聞社がある販売店に1000部を搬入する。しかし、その販売店が本当に配っている新聞は800部だとする。するとその差の200部の大半が「押し紙」ということになる。対外的には、「この地区でうちの新聞は1000部も読まれています」と主張するという訳だ。新聞社側はその存在を認めていない。
黒薮哲哉さん プロフィール
くろやぶ てつや 1958年、兵庫県生まれ。フリージャーナリスト。1992年、「説教ゲーム」(改題:「バイクに乗ったコロンブス」)でノンフィクション朝日ジャーナル大賞「旅・異文化」テーマ賞を受賞。著書に「新聞ジャーナリズムの『正義』を問う」「新聞があぶない」「崩壊する新聞」など。


米国の新聞は決断した 「紙が減ってもウェブ中心でやる」
(連載「新聞崩壊」第5回/アルファブロガー・田中善一郎さんに聞く)
2009/1/ 3

販売も広告も先行き下り坂。ネット戦略に生き残りをかけるしかない。日本の新聞社はそう考えているように見える。ところが、先行している米国の様子を見ると、新聞社のウェブサイトは苦戦している。出稿される広告も減少に転じた。米国のメディア事情をアルファブロガーの田中善一郎さんに聞いた。

――米国と日本の新聞社のサイトはどこが違うのでしょう。

田中 まず英語圏なので、最初からグローバルな展開を視野に入れられる強みがあります。だから、ユニークユーザー数も多い。内容面で言うと、ニューヨーク・タイムズは、紙面に掲載されている記事のほとんどがウェブにも掲載されている。ネットに先に配信する「ウェブ・ファースト」も徹底しています。ネットのコンテンツは速報性もあるし、行数に制約がないし、時には映像も付く。記事一つ一つに厚みがあります。各記事から、関連する外部サイトの記事へのリンクが張られ、開放化に向かっているのも大きな特徴です。

トピックス記事のようなストックコンテンツも充実してきています。ニューヨーク・タイムズでは、約1万種のトピックス記事が随時更新されており、非常によくできています。Wikipediaのような事典ですが、信頼できる内容だし、最新ニュースも組み込まれています。同サイトのニュース記事内に出てくるキーワードには、関連するトピックス記事がリンク付けされています。
ソーシャルメディア化が進んでいることが特徴

「米国の新聞社ウェブサイトはソーシャルメディア化が進んでいる」と話す田中善一郎さん
――そのほかに特徴は?

田中 ソーシャルメディア化が進んでいること。例えばRSS。カテゴリー分けが非常に細かい。たいていの新聞社サイトでは200種ぐらいのRSSフィードを配信しています。ニッチなトピックスでもRSSフィードになっているし。複数の新聞社サイトを対象に特定分野の情報をRSSリーダーで収集する場合、効率よく行えます。特に、仕事に関する専門分野の情報収集環境が、日本とは全然違います。

サイトの基本設計に関しては、3~4年前まで日本の新聞社と大差なくて、紙の焼き直しに過ぎませんでしたが、急に状況がかわってきました。「まずはトップページに来てもらう」というやり方が行き詰まってきたからです。検索エンジンの進歩とRSSフィードの普及で、「まずは1面から読む」という紙媒体的な情報提供だけではユーザーが満足しなくなってきたのです。記事1本1本が検索対象になってきました。web2.0的な流れが生まれてきて、ユーザーの情報接触が「パッケージされたコンテンツを読む」から「読みたい記事だけを読む」というように変化が出てきています。
――ソーシャルメディア、特に、ブログとの関係についてはいかがでしょうか。

田中 ニューヨーク・タイムズでは、ブログの中で記事が話題になるような仕掛け作りを進めてきました。過去に遡ってすべての記事に固有のURLを与え、いつまでもリンク切れが起こらないようになっています。過去20年間の記事を含めて昔の記事までが無料で読めるため、ブロガーは安心してニュース記事を引用してリンクを張るようになってきました。
――新聞社サイト内で提供されているブログについてはいかがでしょう。

田中 いわゆる「記者ブログ」でも、日本と米国とでは様子が全然違います。日本では多くが、単にコラムをブログという形で掲載しているに過ぎませんが、米国ではブロガーとなる記者がブログの世界にうまく入り込んでいます。一般の記事に比べて、規制の少ない自由な視点でブログ記事を書いており、外部ブログとやり取りをしながら、一緒により良い記事を作り上げていこうとしています。つまりコンテンツをマッシュアップしていくプロセスが見られるのがおもしろいですね。さらに最近では、外部の有力ブログとライセンス契約を結び、外部ブログ記事を新聞社サイトでも掲載し始めています。
米国では3-4年前から新聞広告が急に落ち込む
――こうした試みで、確かに情報の価値が上昇しました。問題は、その結果「儲かるか」です。

田中 紙媒体では儲からないという結論を下し、儲かるかわからないネット媒体にシフトしているのが現状です。そこで米国の新聞社がどう変化してきたかを振り返る必要があります。実は、1970年ぐらいから読者の減少が始まっています。米国の人口が2億から3億に増えているにもかかわらずです。つまり、「新聞を読む人の割合」が、劇的に減った。それでも、指導者層の新聞に対する信頼は揺らがなかった。「信用できるニュースがいつでも得られる」メディアとしては、当時は新聞しかなかったからです。そのため、部数が落ち込んでも、新聞広告費が70年から2000年までの30年間で6倍以上も伸びたんです。「広告は上向きだったので、危機感を持つのが遅れた」と言う面があります。

ところが、ブログなどのソーシャルメディアが普及しだした3~4年前から、新聞広告が急に落ち込み始めました。この頃が転換期だと思います。06年~07年にかけて、広告は大幅に落ち込んだ。世間一般の景気がいい時でしたので、新聞社も「これはまずい」と受け止めた。みんなが「新聞が消える」と言い出したのはこの頃です。部数と広告が減少する負のスパイラルが加速化し、止まりそうもない、というのが現状です。これに金融危機が加わって、まさに踏んだり蹴ったりの状態です。
――ウェブと紙媒体の住み分けはできるのでしょうか。

田中 今までと逆に、紙はウェブの補完となっていくでしょう。頭が痛いのは、ウェブを充実させると、紙媒体の販売収入が減ってしまうこと。ニューヨーク・タイムズが、最も典型的な例でしょう。それでも、「紙を減らしてでも、ウェブをやるべき」という決断をした。収益性が悪くても、やらざるを得ない。
――日本の新聞社は、まさにその入り口にさしかかっていると言えそうですね。

田中 さらに米国の新聞社にとって具合が悪いのが、収入の7~8割を広告に依存していることです。それが年率で15%ぐらい落ち込んでいる。特にクラシファイド広告(求人広告など)の落ち込みがひどくて、ニューヨーク・タイムズでもこの1年で3割近く落ち込んでいる。これらの広告はネットに流出してしまったので、紙媒体に戻って来ることは絶対にありません。ネット広告がV字回復し,ネット事業が新聞社のけん引車になるまで、米新聞社の何社が持ちこたえられるかどうか。淘汰は避けられないでしょう。
中高年層には「現状のコンテンツの方が安心」
――日本の状況を見たときに、日本の新聞社サイトは、どういう風に変わるべきだと思いますか。

田中 一部の新聞社を除いてほとんどは、本気でネット事業に突っ走っているとは思えません。皮肉に聞こえるかもしれませんが、中高年向きの現状のサイトは合理性がある。少子高齢化で増えている中高年層では、「編集者の価値観でつくられた現状のコンテンツの方が安心」という声が主流でしょう。さらに何だかんだ言っても、売り上げは紙媒体の方がネットよりもはるかに多い。コンテンツをつくるのも営業をするのも、ネットの方が手間暇かかって大変なのです。紙と違ってネットでは、24時間対応しなければなりませんし。今の新聞社の人的リソースからすれば、ネット中心の事業展開はしばらく難しいでしょう。

やっぱり、ネットはやりたい人がやるべきです。紙媒体がダメになりそうだから、しかたなくネット媒体をやらされるでは成功しないはずです。意欲的にネット媒体に転身したいという若い人が増えてくればいいのですが。外部の血を導入するのも必要では。オンラインメディアに長けたネットベンチャーを買収するくらいでないとうまくいかないかもしれません。
――そうなると、中長期的にはジリ貧なのでは。

田中 確かにそうですが、「新聞が危ない」のではなくて「紙媒体が危ない」ということでしょう。新聞が提供してきたニュース記事のニーズがなくなっているのではない。何だかんだ言っても、いずれ紙媒体の時代は終わって、ネットが中心になっていきます。「質が高くて信用できるニュースメディアは新聞」と主張する人もいますが、「それが紙でないといけない」理由はどこにもありません。米国では、著名な記者がブロガーに続々と転身しています。多くの優秀な記者がネットメディアにはり付いていけば、ニュースペーパーは消えてもペーパーでない新聞が生き続けるのでは。
田中善一郎さん プロフィール
たなか・ぜんいちろう 1945年、兵庫県生まれ。68年、大阪大学工学部卒業。同年、コンピュータメーカーに入社し、情報通信システムの開発に従事。74年、日経マグロウヒル社(現・日経BP)に入社、「日経エレクトロニクス」記者を経て、「日経バイト」編集長、「日経コミュニケーション」編集長などを歴任。2006年4月、同社を退社。インターネット業界動向をピックアップし伝えるブログとして「メディア・パブ」を執筆中。


新聞を法律で守る必要あるのか 「再販制」という反消費者制度
(連載「新聞崩壊」第6回/鶴田俊正名誉教授に聞く)
2009/1/ 4

読書週間が始まった2008年10月27日、河村建夫・官房長官は記者会見で、新聞の再販制度について触れ、「制度維持することが文字・活字文化を維持することにつながる」と語った。新聞を「自由な競争」から守るという再販制度。新聞は特別に守る必要があるのだろうか。公正取引委員会の「再販問題を検討するための政府規制等と競争政策に関する研究会」座長も務めた、鶴田俊正・専修大名誉教授(産業組織論)に話を聞いた。

オウム真理教の教祖の理論と「同一視」される

「大学や高校で教えている私の家族もニュースはネットで十分と新聞は読んでいません」と話す鶴田名誉教授。教授自身はネット・ケータイでも情報を収集するが、「紙の新聞」も毎日読んでいるそうだ
――新聞の再販制度の問題点を簡単に解説して下さい。

鶴田 再販行為の基本的な問題点は、価格を拘束することによって、流通業の競争を制限し、小売業の営業の自由を奪い、消費者利益に反することにあります。一方、新聞業界は「再販制を廃止すると、価格競争が激しくなる。過疎地では新聞の値段が割高になって、消費者に迷惑をかける」「取材経費が圧縮されて紙面の質が低下し、民主主義の基盤が維持できなくなる」といった理屈を持ち出し、制度の維持を主張してきました。
――最近はどんな動きがあるのでしょうか。

鶴田 1990年代に入り、競争を進める流れが出てきました。化粧品や医薬品など指定再販と呼ばれていたものは90年代中に再販ができなくなりました。新聞についても、私が座長を務めた公正取引委員会の研究会などで議論されました。結局、公取委は2001年3月、「競争政策の観点から再販制度は廃止すべき」だが、まだ「国民的合意が形成されるに至っていない」として、「当面存続することが相当」という見解を発表しました。その後、再販制の弾力的運用云々が議論に挙がっています。しかし、基本的には01年のときから事態は変わっていません。私個人は当時も今も、新聞の再販制は撤廃すべきだと考えています。
――以前国会で、読売新聞の当時社長だった渡辺恒雄さんから、名指しで批判されたそうですね。

鶴田 1996年6月の規制緩和に関する衆院の特別委員会に参考人として出席した渡辺さんが、私を含め3人の学者の名前を挙げ「新聞なんかつぶしてやりたいと思っている、3人のイデオローグがいる」と言われました。私たちの議論を「大々的に報じない」のは、「オウム真理教の教祖の理論を長々と書かないのと同じ」なんていう表現もありました。
しかし、私の記憶では上のようなやりとりを新聞はどこも報じなかった。私たち学者の議論に反対するのは勿論自由です。しかし、日頃は他業種の競争政策に関しては「価格を決めるのは市場や消費者」などと規制緩和を社説などで主張しながら、自分たちのこととなると「社会の公器だから」などと特別扱いを求め、反対意見も公平に扱おうとしない。こんな姿勢には当時から疑問を感じていました。
私たちは、独自性がある新聞なら、再販制をなくしても破壊的価格競争にはならないと訴えていました。「新聞をつぶしたい」なんてとんでもない。新聞が消費者ニーズに敏感になり、その上でがんばってほしいと思っていたのです。
――渡辺さんは、なぜあそこまで強く再販廃止に反対したのでしょうか。

鶴田 新聞の営業政策の根幹を揺るがす、と感じたのでしょう。自分たちの新聞だけを売る、つまり専売店に部数増を強く求め、大部数を維持し、それによって広告の価値をあげていくビジネスモデルですね。そして部数増のため、(販売)拡張団による強引な勧誘や景品配りをする。新聞の中身や価格で競争していないのです。まあ、拡張団の活動は現在では以前のように強引ではないようですが。いずれにせよ、そういう形で築いてきたものが崩れていくと心配されて大反対したのでしょう。
――かなり前の話ですが、「ある学者が新聞とトイレットペーパーは商品として同じだと言い放って新聞を貶めた」という趣旨の新聞記事も出ました。

鶴田 ひどい話です。本来は、新聞側が自分たちの主張する「新聞の公共性」についてきちんと定義付けできていなかったのが問題の本質だったのです。それなのに、東大の三輪芳朗教授の言葉尻を捉え、新聞はゆがめて報じたのです。私は議事録を読んでいます。
1995年に開催した公取の小委員会で、新聞の「特別扱い」が必要な理由などについて意見が交わされました。ある新聞社の販売局長が「新聞は公共性・公益性が高い」と表現したので、三輪教授は公共性・公益性とは何かと質問したのです。すると新聞協会関係者が「誰に対しても、どこに住んでいても確実に、しかも同じように安く手に入るという仕組みは新聞にとって大事だ」と説明しました。別の新聞社関係者は「一般大衆ほとんどの人が使う有益な商品」と答えました。
これに対し三輪教授は、公共性というものが「あらゆる人に行き渡らなければならない」のだとしたら、「例えばトイレットペーパー」も「そうだろう」と指摘したのです。要するに、新聞社側が行った公共性の説明は「(定義として)十分ではないだろう」と言っただけなのです。
――自民党と新聞業界の結びつきが再販制存廃の議論に影響した、ということはあるでしょうか。

鶴田 あると思います。公取委員長人事で自民党有力者と懇意な人が選ばれてから、再販廃止に向けたそれまでの議論の流れが変わったな、と感じたこともあります。
再販制で守られたことが現在の苦境を招く皮肉
――新聞社は、ネット上で無料ニュースを相当な分量配信しています。紙では全国均一価格にこだわる姿勢とは矛盾しているのではないでしょうか。

鶴田 そうですね。新聞の長期購読者が割引などのメリットを受けられない一方、ネットではただや極めて安い料金で見ている人がいる。紙の新聞は読まず、ネットでニュースを見ただけで済ませる人が、若い人たちだけでなく私の周囲でも本当に増えています。特色ある新聞作りをこれまでに進めていれば、紙の優位性はもっとあったはずだと考えています。
――では、再販制の廃止が認められ、各紙が競争的に独自性ある紙面作りを進めていれば、ここまで新聞も苦しくならなかった?

鶴田 そうだと思います。新聞を守るために再販制を守ったつもりなのでしょうが、皮肉なことにその再販制に守られた中で新聞はここまで苦境に陥ってしまいました。再販制をたてに独自性を十分に発揮する競争から逃げてしまったからではないでしょうか。
――外国では新聞と再販制の関係はどうなっているのでしょうか。アメリカはありませんがなぜないのでしょう。

鶴田 最新状況は知りませんが、以前調べたときは、OECD(経済開発協力機構)加盟の中では、日本とドイツだけでした。ほかの国で新聞の再販制がないのは、必要がないからですよ。新聞もほかの商品と同じように売買される、というだけの話です。
――公取の01年の結論では「当面」とありました。新聞の再販制度は、近頃あまり話題になりませんが、決着はもう「存続」でついてしまったのでしょうか。

鶴田 まだ決着はついていないと考えています。新聞の特別扱いはおかしい、という考え方は底流として根強くあります。いずれまた公取は問題にせざるを得ない、と見ています。しかし、新聞社とコトを構えるのは相当エネルギーがいることなので、よほど公取のトップに腹の座った人がつかない限り、難しいかもしれません。
<メモ:再販制度と新聞>
再販売価格維持制度。製造業者(新聞社)が小売業者(新聞販売店)と定価販売の契約を結ぶことができる。独占禁止法で原則的に禁じられているが、1953年の独禁法改正で新聞や書籍など著作物は例外的に認められ、現在に至っている(法定再販)。新聞の場合、特殊指定(定価割引の原則禁止など)と合わせ、全国どこでも同じ料金という現在の状態が可能になっている。

鶴田俊正名誉教授 プロフィール
つるた としまさ 1934年、東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学院経済学研究科修士課程修了。1988年から2001年まで、公正取引委員会の「政府規制等と競争政策に関する研究会」で座長を務める。その間、「再販問題を検討するための政府規制等と競争政策に関する研究会」の座長にも就任し、公取委への提言をまとめた。現在、専修大名誉教授(経済政策、産業組織論)。社団法人「消費者関連専門家会議」(ACAP)会長。


人件費削るのは安易な方法 経営者はもっとビジョン示せ
(連載「新聞崩壊」第7回/新聞労連・一倉基益副委員長に聞く)
2009/1/ 5

広告収入の落ち込みで経営悪化が目立つ新聞業界。アメリカではすでに、米トリビューン社の破産申請やニューヨーク・タイムズの記者リストラなどの動きが出ている。働いている記者や社員たちの危機意識はどれくらいあるのか。日本新聞労働組合連合(新聞労連)の一倉基益・副委員長に聞いた。

「新しいビジネスモデル」イコール「ネット」ではない

「難しくて簡単に答えを出せない問題が多い」と話す一倉基益副委員長
――2008年の年末一時金(ボーナス)交渉の状況はどうですか。

一倉 08年はマイナスです。大幅ダウンを強いられています。07年もほとんどマイナスでしたが、幅はそうでもありませんでした。
――全国紙と地方紙との差、はあるのでしょうか。

一倉 日経さんだけは何とか…という感じですが、一般的には同じような状況です。
――大幅ダウンの理由は、やはり経営が厳しい、悪いということなのでしょうか。

一倉 新聞産業そのものが、我々が使っている言葉ではありませんが、衰退している、と周りの人は言っています。そう言われてしまう状況ということだと思います。
――その理由を聞かせてください。

一倉 部数の伸び悩み、広告の落ち込み、用紙代の高騰、この3つです。
――大変な状況ですね。新聞社の中にいる人たちは、危機感を持っているのでしょうか。

一倉 我々だけでなく、経営陣の方が(危機感を)持っているし、一般組合員も感じています。体力的には内部留保はある企業が多いのですが、ここ数年は人件費の削減が続いています。

 社員たちは、厳しい状況だということを数字上は理解していますが、どうすればいいかの答えを持っている訳ではありません。特に若い世代は漠然とした不安を持っています。一方で40―50代の中には、「自分たちがいる間は大丈夫だろう」という根拠のない安心感をもっている人たちもいます。しかし多少の差こそあれ、みな共通して、今の給与体系を将来維持できないのではないか、という危機感は持っています。
――そうした厳しい状況に対し、組合ではどう対処しようとしているのですか。

一倉 会社側が「危機だ」と言っている理由もそれなりにわかります。しかし、人件費を削るという安易な方法に手をつけるのは、良くないと主張しています。5年から10年先の経営ビジョンを示すべきだ。財務諸表を公開していくべきだ。こんなことも言っています。新聞社は上場していないので公開の義務がない、というところが多いのですが、財務諸表を分析し、本当に会社に体力がないのかを分析し、反論すべきは反論する、という立場ですね。そのために専門家に分析を頼んでいます。
――日本経済全体が厳しい状況を迎えています。そうした中、会社側へ労組から経営改革の提案をする、というのは難しいのではないですか。

一倉 組合本来の仕事ではないのですが、組合内部にそうした要望があったので、新聞社の新たなビジネスモデルを研究する産業政策研究会という組織を新聞労連内に07年に立ち上げました。しかし、まだ経営の現状をまとめた中間報告をした段階で、具体的にはまだ話せません。09年7月にはまとめたいと考えています。とはいえ、我々は経営者ではありません。雇用を守りながら、という中で答えは出しづらいところがあるのも事実です。報告書として完成品を示せるかどうかはまだ分かりません。
――アメリカでは、ロサンゼルス・タイムズ紙などを傘下に持つ米メディア大手トリビューンが破産申請をしたり、ニューヨーク・タイムズが記者をリストラしたり、テレビを含めリストラの嵐が吹き荒れています。日本も同じ状況になるのでは。

一倉 日本でも十分(同じような事態が)考えられると思います。広告の落ち込みは2007年より08年が大きく、09年はさらに落ちるのは分かりきっています。しかし、いたずらに状況に踊らされることなく、一つ一つできることをしていくしかありません。我々も新しいビジネスモデルについて研究をしていますが、本来の組合の仕事は経営ビジョンを示すことではなく雇用を守ることです。
――ただ、紙からインターネットへの移行を模索する動きが以前からありますがうまくいっていないようです。どう受け止めていますか。

一倉 新聞社の「新しいビジネスモデル」イコール「ネット」ではありません。課金システムを考えてもニュース配信だけでは産業として成り立たないでしょう。大手は過去の記事をアーカイブして有料化していますが、限界があるでしょう。ネットには手をつけない、ということも選択肢として検討すべきだと思っています。確かに、中四国、近畿、九州の地方紙12の社が共同で「釣りタイムズ」という有料携帯サイトを立ち上げ、これが課金システムを使って成功している、といった例はあります。しかし、全国一律でこうすれば、というものはなかなか見つかりません。
新聞社の給料水準について善し悪しは議論してない
――今のままいくと、雇用を守るか賃下げを飲むか、という話になるのでしょうか。

一倉 どう受け止めるかはこれからの議論だと思います。雇用といっても正規、非正規問題も存在しています。新聞業界でも約14%は非正規ですから。非正規の人たちを正社員化すべきだ、という運動方針案を掲げていますが、では人件費がふくらむのをどうするのかという議論も必要になってきます。
――そこは労組としては苦しいところではないですか。正規と非正規を一緒にする場合、リストラ・賃下げが条件ということになりかねません。

一倉 何を選択するのか、ですね。(正社員の)賃下げを容認する、という議論に行き着いた場合は、全体で受け止められるかどうかが問われます。しかし、議論はまだしていません。
――頭の片隅に置きながら、という段階?

一倉 そういうことですね。今は、非正規の人たちについて、きちんと法律に基づいた待遇を会社に求めていきます。
――ところで、テレビや新聞社の給料は高いのではないか、という批判が高まっています。

一倉 外部の人が言うのは自由です。テレビを含めて報道という使命の下に働いてきてこの水準が得られたという背景があります。産業構造として維持できなくなったという場合はともかく、周りから言われたから下げる、ということにはならないと思います。
――確かに報道に携わる人の給料は、不正への誘惑に負けないためにも高くあるべきだ、という議論もあります。高い必要があると考えていますか。

一倉 他産業と比べ高いことは認識していますが、その善し悪しは議論してないし、議論する必要があるかどうかも分かりません。
一倉基益さん プロフィール
いちくら もとえき 1962年生まれ。85年に上毛新聞社入社、広告局に配属。2007年10月から日本新聞労働組合連合(新聞労連)副委員長。新聞労連内の産業政策研究会の担当役員でもある。新聞労連は、全国紙やブロック紙、地方・地域紙、専門・業界紙などの労働組合86組合、約2万5500人が加盟している。労働条件の改善・向上への取り組みだけでなく、取材・報道のあり方を検証する新聞研究活動なども行っている。


「紙」にしがみつくほうが日本の新聞長生きできる
(連載「新聞崩壊」第8回/評論家・歌田明弘さんに聞く)
2009/1/ 6

危機を迎えつつある新聞業界は、「ネット化」に向けて突き進むべきか、それとも、もうしばらくは紙媒体に踏みとどまるべきなのか。「インターネットは未来を変えるか?」などの著書があり、ネットと既存メディアとの関係についての考察を続けている評論家の歌田明弘さんに、インターネットが新聞経営に与えた影響と、今後の見通しについて聞いた。

――いつ頃から、「ネットは新聞経営に影響を与える」という印象を持ち始めたのですか。

歌田 ネットで無料でニュースが読めるようになった時点で、どうなるのかなと思いましたね。ニューヨーク・タイムズは、「ウェブ・メディアの登場をほうっておけば、アメリカの新聞収入の屋台骨のクラシファイド広告(求人などの小広告)が奪われる」というレポートをコンサルタント会社から受けとったことをきっかけにサイトを立ち上げた。なぜやらないといけないかについての経営的な理由がはっきりしていた。日本の新聞社は、なぜネットメディアなのかということが、経営的にはあまりはっきりしていなかったのではないでしょうか。
新聞社の危機はネットメディアの現状と表裏

新聞社のネット事業展開の可能性について語る歌田明弘さん
――「新聞離れ」が指摘されますが、新聞の読者が「ネットに移った」のでしょうか。それとも、単に「読まなくなった」のでしょうか。

歌田 私は出版社出身ですが、毎月4000円の出版物を買ってもらうのは至難の業です。新聞を購読しているのは当たり前みたいな感覚があったときにはあまり考えずにとってもらえたかもしれませんが、90年代以降、家計がどんどん苦しくなり、支出を見直す必要が出てきて、しかもネットでニュースを手に入れるという代替手段があったとなれば、苦しくなるのは当然です。

いまは苦しいのは新聞社だけではないので、新聞業界以外の人間にとっては「ネットの登場で苦しい業種がもうひとつ出てきた」ぐらいのことともいえるわけですが、新聞社がなくなることが社会にとってどういう意味を持つかが重要ですね。

新聞社が倒産しても、同じような機能をネットメディアが担うのであれば、社会のダメージはそれほどないともいえるわけです。しかし、少なくとも日本では、さしあたりそう簡単に移行が成立しないのではないかと思います。
――新聞の評価すべき役割を挙げるとすれば、どのようなことですか。

歌田 やはり、社会に緊張感をもたらしているところでしょう。大上段に言えば、「権力の監視」ということになるわけですが、いろいろな軋轢が生じるにもかかわらず、それを社会的な使命だと思って追及し、正確さも損なわないようにするというのはかなりたいへんなことです。あらためてそういうと「そうかな」と思う人もいるかもしれませんが、新聞社以外の人はじつはあまりよくわかっていない。そこがそもそも問題といえば問題です。

新聞社のほうは、当然そうしたことは理解されているはずだと思っているのかもしれませんが、そうではない。

「ブログもジャーナリズム」といった議論がよくされていますが、ジャーナリズムのひとつだと思ってブログを書いている人もいるでしょうけど、そう言われると戸惑う人も多いでしょう。アメリカの場合は、ブログが物書きのデビューのための装置として機能しているところがあると思いますが、日本はあまりそうなっていない。無償の行為であれば、リスクを負うことまで求めるわけにもいかない。「私のブログはジャーナリズムだ」というのは自由ですが、そうであれと要求するのは要求しすぎ、というところもあります。

また会社組織であっても、ネットメディアは経営基盤が弱いところも多いので、取材などにお金をかけたり人手を割いたりすることもできず、多くのリスクを負って記事を書くこともしにくい。新聞社の危機というのはネットメディアの現状の問題と表裏になっているのだと思います。
――元ライブドア社長の堀江貴文さんは、「自分でメディアを立ち上げる」と宣言したことがあります。ネット上で、新聞社や通信社に代わるような動きが出てくると思いますか。

歌田 ネットでやろうと思ったら、お金儲け以外のモチベーションも必要でしょう。堀江氏の場合は、「ちょっと一泡吹かせてやろう」みたいな山っ気があったから自分でニュースをやろうと思ったのかもしれませんが、ただ儲けたいだけなら、新聞社みたいなことをネットでやるよりもほかのことを選ぶのではないでしょうか。

もちろん、かつて経営的な問題はともかく新聞を発行し始めた人たちがいたように、やる人が出てこないというわけではないでしょうが。
紙を全部やめてネット移行すると、10分の1以下の収入になる
――新聞社は、紙媒体からネットにすべてを切り替えてしまうと、収入が大きく減ってしまいますね。

歌田 そうですね。現状では、日経以外はデジタル部門の収入は全体の1%あるかないかのようですから、紙を直ちに全部やめてネットに移行すると、おそらく10分の1以下の収入になってしまうでしょう。無料でアクセスする人が増えても広告価値はそんなには上がらないので、購読料を失えば、ダメージはきわめて大きい。
――かなり読まれていたとしても、お金は沢山取れない。

歌田 アクセス数だけで広告料が決まるとなると、苦しいでしょう。

ただ、行動ターゲティング広告とか、無料にしても登録制を導入するなどして読者プロフィールがわかれば、新聞社サイトの利用者は比較的高収入の人が多いようですから、購買力のある人がアクセスしているということで広告料を高く設定することも可能になってくるかもしれません。

ウォール・ストリート・ジャーナルのサイトの記事は有料のものが多いですが、有料でもアクセスしてくれる読者がたくさんいるということで、広告料金を高く設定できている。完全無料化してしまえば、広告料金を引き下げなければならないようなことも起こってくるようです。
――それは、「ウォール・ストリート・ジャーナルが経済紙だから」という、特殊要因があるようにも思えます。

歌田 経済や、サブカル、音楽といった分野や特定の世代・層に特化するなど工夫が必要でしょう。一般のニュースを扱うだけでは、厳しいでしょうね。
――朝日・読売・毎日のような大手でも、なかなか利益を生むのは難しそうですね。

歌田 おっしゃる通りです。そう考えると、経営的には、大手の新聞社が安易にネットに全面移行するなどというのは考え物で、発想としては後ろ向きでジリ貧かもしれませんが、紙媒体にしがみつくほうが結局は長く生き延びられるのかもしれません。

ネットメディアは広告依存度が高く、そういう意味で不安定な要素が大きい。アクセス数を増やすためにきれいごとばかりを言っているわけにはいかないという側面もある。だから、経営的な意味だけでなく、質を保つという意味でも、購読料を捨てないことがさしあたり最大のリスク管理かもしれません。

ネットに全面移行するなどというのは、新聞社にとってだけでなく、社会にとってもプラスではないでしょう。そうはいっても、経営的に苦しくなってくれば、広告などいろいろな面でいずれにしても質の劣化が起こってくる可能性は大きいわけですが。
――紙でできる限り粘って、ネット以外の、他のやり方を模索する?

歌田 いまさらネットを無視するわけにはいかないでしょうけれど、少なくとも大きな新聞社は、まだまだコスト削減の余地がじつはあるのではないかと思います。米国に比べれば購読もされ、韓国などとは比べものにならないぐらい日本の新聞は信頼されてもいるという恵まれた環境があるので、コスト削減できれば生き延びられる余地は大きいはずです。
もっとも、自分たちが決めたルールが多くて、手を縛っているところもあるのではないかと思います。それでコスト削減ができないとなると、やはり危機は免れられないことになります。

例えば、通信社の配信でカバーできるところはして、それでカバーできないところに集中するというやり方もあるでしょう。ただ、大手の新聞社は、まさに通信社のような仕事をする方向にいよいよ向かう可能性もあります。他メディアも含めた多くのサイトにニュースを配信する。新聞の購読者がいよいよ少なくなり、広告以外の収入源を求めるならば、ニュース配信会社になるというのもひとつの選択肢です。多メディア状況が出現しているわけですから、自社媒体だけに固執する必要はないし、実際のところそれは無理でしょう。
歌田明弘さん プロフィール
うただ・あきひろ 1958年生まれ。評論家。東京大学文学部卒業。青土社「現代思想」編集部、「ユリイカ」編集長をへて、93年よりフリーランス。アメリカ議会図書館の資料の編集などをする一方、メディアや科学技術をテーマにした執筆を中心に活躍。著書に「ネットはテレビをどう呑みこむのか?」「科学大国アメリカは原爆投下によって生まれた」など。「週刊アスキー」にコラムを連載中。


新聞記者は会社官僚制の中で埋没 だから新しいニーズを掬えない
(連載「新聞崩壊」第9回/新聞研究者・林香里さんに聞く)
2009/1/ 7

日本の新聞記者は担当部署が2、3年で変わり、専門記者が育たないとよく言われる。その一方で、「地域の問題など身近な話題もカバーしきれていない」という批判も根強い。ロイター通信で記者経験がある東京大学大学院・情報学環准教授の林香里さんに、望ましい「新聞記者像」について聞いた。

――林さんは、新聞社が「身近な話題を取り上げること」の重要性を強調しています。

林 800万とか1000万部を発行するマンモス全国紙は、組織化されていないニーズを掬(すく)いきれていません。しかし、社会が複雑化、細分化している現代では、組織や制度からこぼれ落ちてしまう部分が多く、その部分にこそ多くの問題が生じているように思います。生活世界における子育てや介護学校の中の問題なども、実際そういうところが多いように思います
もう何十年も政党政治は形骸化していて、労働組合もダメだ、となると、だれが社会のさまざまなニーズを掬い上げるか。そこにはメディアの役割があると思うのですが、現実はなかなかそううまくいかない。むしろ、マスメディアは、何か大きな事件が起きると、ワーッといっせいにその方向に流れていってしまう。「マイノリティの問題を探し出す」とかなんとか言っているどころじゃないのが現実みたいですね。
多くの記者は、「認められないネタは、やらない方がいい」

「おもしろいジャーナリズムを目指すなら、小さくなって、とんがって出直すという選択肢もあるのではないか」と語る東京大学大学院・情報学環准教授の林香里さん
――新聞は、掬いきれていないことが多い、ということですね?

林 新聞で取り上げられると、「新聞が取り上げてくれた!」と喜ぶ当事者はまだまだ多いわけですが、裏をかえせば、普段は目を向けてもらえていない、光の当たっていない問題が多いということです。困難な難病治療、複雑な家庭事情、不公正な労働条件、先の見えない介護労働などなど。たくさんありますよね。新聞については、投書欄もバイアスがかかっている感じがするし。結局、一般読者は新聞に自分たちの存在を認知してもらいにくいことにフラストレーションがたまっている。新聞は規模が大きすぎて、どこか「新聞メタボ」で市民生活に鈍感な状態におちいっているのではないでしょうか。
――新聞は政治・経済に偏りがちで、その狭間を拾うのは不得手。何故そういうことが起こるのでしょうか。

林 トヨタのニュースであれば「トヨタを取材する」正当性(大義名分)の元に取材ができるし、麻生内閣も「支持率が落ちた」となれば、それだけで正当性ができて、すぐに取材ができる。記者クラブもある。ですが、まったく新しいニーズというのは、会社の中では「何故それが大事か」を、まず説明しないといけない。新聞社自体が大きな官僚機構ですから。そうなると、初動にすごいエネルギーが必要になります。多くの記者は、「認められないネタは、やらない方がいい」と、危ない橋を渡らなくなってしまう。外から見ていると、そういう悪循環のシステムができあがってしまったように思えますね。記者一人一人の責任や能力の問題というよりは、記者が巨大システムの中で埋没してしまって自分の意志をもてなくなっている。みんな忙しくて、目先のことに囚われてしまっている。いまはある意味で日本全体がそんな状態かもしれません。でも、記者という仕事は、必ず心のどこかに「余白」を残しておかないと、他人の痛みを感じ取ることができないのではないでしょうか。記者が会社員と違うのは、そういう種類の感受性を要求される仕事だということもあると思います。
――「新しいニーズ」のひとつが、インターネットだと思うのですが、新聞社の中では「ネットは悪の巣窟」のように思われているらしい。

林 本当にイヤだと思うのは、ネットに対する固定的偏見です。ネットにも変なのはありますけど、それを言うなら「マスメディアにも変なのあるでしょ?」って思います。沢山の人が「ネットの弊害が…」みたいなことを言ってきますが、私はそういう単純な図式は絶対に認めたくない。ネットを排除したり、媒体に序列をつけたりすることは、マスメディア側にも百害あって一利なし、です。
――記者が専門性を持つべきだという議論についてはどう思いますか。

林 どの世界にも最低限の知識やスキルは必要ですが、新聞社の場合、ジェネラリストが多すぎるのではないでしょうか。記者さんと仲良くなって「一緒に問題考えようよ」って思っても、2-3年経つとすぐに異動してしまう。もちろん、定期的にローテーションする人がいてもいいとは思うんですけど、情報を扱う企業としては、専門性にも配慮した方がいいですよね。「いまの時代、どんな読み物にもしっかりとした専門性がないと、なんかつまんないですよね。
わかりやすい意味づけをしないといけないという強迫観念
――ロイター通信に3年おられました。英国と日本の記者は違いますか。

林 英米の記者は最後までペンを持っています。日本みたいに一定の年齢になると販売や企画に回されるなんていうことはほとんどありません。書く人は、最後まで書いている。また、生涯ずっと1社にとどまる人は、ほとんどいません。数年したらステップアップのために別の会社に移るのが普通です。担当分野を変えずに、会社を替えるのです。記者は、自分の得意分野で業績をあげ、それをベースに会社を移っていきます。
――地方紙の記者を経て、ニューヨーク・タイムズなどの大手紙に就職する、というケースもありますね。

林 私の知人に、ロイター→ビジネスウィーク→ニューズウィークというキャリアを辿った人もいます。新聞記者は、週刊誌記者ともインターチェンジブル(交流可能)なんです。
――新聞記者自身も迷っています。

林 良心的な人ほど迷っているでしょう。それはやはり、彼・彼女たちが、マスメディアの巨大システムと自分の個人的良心や信条との摩擦を感じているからでしょう。社内では、新しくチャレンジをしようとする士気が低くなっているようだし、また、そういう取り組みを評価するシステムもない。しかし、長期的にはそれを作っていかないと元気な若い人が来なくなる恐れがあります。
――(新聞読み比べサイト)「あらたにす」の新聞案内人をなさっていますね。朝日・読売・日経を読み比べてみて、内容に差はあるものですか?

林 「あたらにす」を見ると、日経は事件報道については落ち着いた報道をしていることに気づきます。事件・事故を、距離を置いて観察している。「経済」という専門性が、そうした冷静さを正当化できるのでしょう。しかし、朝日・読売は、「一般紙」だから、なにか事件・事故が起きると突き放して見ることが出来ず、つい現場で警察と一体となって報道合戦に参加してしまっている。そして、いつも事件に何かわかりやすい意味づけをしないといけないという強迫観念をもっているようです。もちろん、いい意味で意味づけをしてくれればいいのですが、どうもそういう例が少ない。例えば、最近起きたインドのテロ事件では、亡くなった1人の日本人の周辺の話題ばっかり。実際は非常に多くの人が亡くなっているはずなのに、残りの人のことはまったく報じず、一人だけに徹底的にこだわる。これっていったい何なの?!って思いますね。さまざまな現象について、もうちょっと距離をもって報道しようとする姿勢があってもいいのではないでしょうか。プロとして要求されるニュースの選択や価値判断、ぜんぜんされていませんね。思考停止のナショナリズムとセンセーショナリズムが目立ちます。
――新聞はこれからどうしたらいいでしょうか。何かいいアイデアはありますか。

林 ありません。でも、全国紙は部数が1000万とか800万。押し紙があるとはいえ、多すぎますよね。これではどうしても大衆迎合になってしまうのではないでしょうか。近年、全国紙自身が「新聞は変われるか」という問いを立てているようですが、しかしたいていその解には「規模の縮小」という選択肢は入っていません。全国紙は、部数はこのままで、でも変わらなくちゃ、と考えているけれども、ちょっとそれは虫がよすぎるのではないかと思います。いっそ小さくなって、とんがって、出直すっていう選択もあるのではないでしょうか。おもしろいジャーナリズムを考えるなら、そのぐらいの踏ん切りがないとダメなのかもしれません。そうして、日本各地の地方紙も、全国紙のライバルとしてしっかりと自信を取り戻して、いま以上に丁寧に地方や地域からの発信力を強化していってほしいと思います。
林香里さん プロフィール
はやし・かおり ジャーナリズム研究者 東京大学大学院・情報学環准教授。ロイター通信東京支局記者、東京大学社会情報研究所助手、独バンベルク大客員研究員を経て現職。専門はジャーナリズム・マスメディア研究。朝日、読売、日経3社共同の新聞読みくらべウェブサイト「あらたにす」で「新聞案内人」を務める。著書に『マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心』「『冬ソナ』にハマった私たち」など。


ビジネスモデルが崩壊 身を削ぐような合理化が始まる
(連載「新聞崩壊」第10回/ジャーナリスト・河内孝さんに聞く)
2009/1/ 8

「新聞業界の危機」を「外野」から指摘する声は多いが、業界内部からの声が目立つことは多くない。そんな中、毎日新聞社OBの河内孝さんが自身の著書「新聞社-破綻したビジネスモデル」で業界の内情を暴露し、注目を集めている。社長室長や中部本社代表、常務取締役(営業・総合メディア担当)などを歴任し、新聞社経営の表と裏を知り尽くしているとも言っていい河内さんに、新聞業界のビジネスモデルや、生き残りのための方策について聞いた。

「部数がすべてを解決する」は一面真実だった

河内さんは「印刷・販売工程を各社で共通化すべき」と話す
――ここ数年でこそ、新聞は「衰退している」という言われ方をしますが、かつては「儲かる商売」だと言われてきました。何故儲かったのでしょうか。

河内 まず、国際的に見て、日本の新聞業界の特徴は、人口に比べて発行総部数が非常に多いことです。およそ5000万部と言われていますが、他の先進国に比べると大変な新聞大国です。英国も新聞大国と言われましたが、部数は1700万部しかありません。人口が倍近いアメリカとほぼ同じですからね。

一方、新聞社の数は日本では100前後なのに対して、米国は1400。国際的に見ると、日本の新聞社は、1社あたりの発行部数が非常に多い。これは、経営としてはすばらしいことで米国の大学教授の中には、「米国の新聞業界も、日本のように寡占化しないと生き残れない」と言う人もいます。ただ、この寡占化構造は、自発的に作り上げられたものではありません。日本でも、1930年代までは、1500~1600ぐらいの新聞社があったんです。それが、戦争遂行のための総動員体制になって「1県1紙政策」が強制され、様々な新聞が合併させられた結果、昭和18(1943)年には56まで減らされてしまった。これは国家統制という面では困りますが、経営の合理化という点で、良いこともあったんです。過当競争がなくなり、ある意味で、安定した。

戦争が終わっても、寡占化された経営構造は残った。その後の高度経済成長もあって、寡占化しながらマーケットが広がっていった。ある意味、理想的な経営環境だったんですね。そういう意味で、新聞は「儲かる商売」だったんです。
――具体的には、どのような「もうかる仕組み」があったのでしょうか。

河内 新聞社には「部数がすべてを解決する」という言葉もありましたが、これは一面の真実を表しています。高度成長期は、販売店が仮に実際の部数が1000部であったとして、発行本社の方で1200部(200部余計に)送っても、拡張努力でお客さんを増やせた。だから、「押し紙」ではなかった。部数が増えれば、広告単価も上がって、どんどん儲かるような仕組みが出来ていった。

全国販売店2万1000店で、1兆8000億円の売り上げ、そのうち半分近くを販売管理費に使っている。普通の商売だったら成立しませんよ。それでも何とかなっていたのは、広告売り上げが右肩上がりだったからです。広告代理店からの要請を断るのが大変、そういう夢のような時代があったんです。
――では、その「夢のような時代」は、いつ頃曲がり角を迎えたのでしょうか。

河内 転機は、バブル崩壊の頃ですね。現実には、高度成長が終わった80年代に兆候が見えてきたように思います。広告が、90年代から急落したんです。バブルのピーク時に比べると、半分ぐらいにまで落ち込んでいる。不景気が原因であれば、景気が回復すれば広告も戻るはずなのですが、現実にはそうではない。

地域でシェアが高い新聞の多くが、広告収入で前年割れの状態が続いています。これは、広告主が「新聞から他媒体に引っ越しちゃった」という現象です。「広告を出したいが、出せない」という訳ではない。

さらに言うと、2年ほど前に、日経の広告収入が読売に迫るぐらいの勢いで伸びてきたんです。そうなると広告営業上、「300万部と1000万部の違いは何なのか」という話になってきます。つまり、「部数、シェアー=広告単価」という黄金律が消滅してしまったんです。
――それでは、販売収入が落ち込んでいる理由は何でしょうか。

河内 やはり、「新聞離れ」でしょうね。若い人は新聞を読まないし、お年寄りは読んでも購読していない。図書館や公民館なんかで読んでいるんですね。

この原因は、携帯電話の普及にあるのではないかと思います。今、何だかんだ言って、携帯代金は、1世帯あたり2万円はかかるでしょう。その反面、「家庭で情報収集のためにいくら使いますか」という問いには、「2万円以下」という答えが圧倒的に多い。そうなると、減らされる対象は、月4000円の新聞とNHKにならざるを得ない。世帯別の購読率が下がって、販売収入に響いています。一般家庭だけでみると、購読率は50%を切っている、というデータもあります。
――では、こうした状況に対する有効な手立てはあるのでしょうか。

河内 米国の地方に行くと、プリンティング・デポ(printing depo、小規模印刷所)というものがあって、各社が共同で印刷機を使っています。「各社が出来るだけ遅くニュースを入れようとして、印刷機の取り合いが起こるのではないか」という人もいますが、速報性については、「テレビを見てもらえばいい」という考え方です。

日本でも同様の動きが起こっていて、販売激戦区の千葉県で、「朝日新聞を読売新聞の工場で印刷する」みたいなことが行われつつある。昔では考えられなかったことです。

私は、「出版社になりなさい」と言っているんです。一度校了すれば、印刷会社が印刷して、別の会社が流通を担当する。ところが、新聞社は原料を買ってくるところから売るまで、全部やっている。「部数至上主義」時代は上手くいっていたのですが、今後は紙の共同購入まで行くのではないかと思います。さらに、新聞社ごとに配達ルートがあるのがおかしいんです。これを共通化すれば、数百億円単位で合理化できるのではないでしょうか。もっとも共同販売にしますと、押し紙はできませんから販売部数は相当減りますよ。
新聞社のビジネスモデルは凋落している百貨店と同じ
――傘下に持っているテレビ局が支えてくれるから大丈夫、という考え方もありますね。テレビ局との関係についてはいかがでしょうか。

河内 確かに2年くらい前までは、「新聞に比べれば、テレビ局は持ちこたえられるだろう」という考え方もあった。ただ、テレビも広告費の落ち込みが激しくて、赤字に転落するキー局も出てきました。新聞とテレビで「老老介護」をしても仕方がありませんよね。テレビ局ではプロパー社員も高齢化しているし、ナショナリズムもあるから今後、新聞が支配してゆくのは難しくなるのではないでしょうか。

ただ、ある地域の新聞社には100人、系列のテレビ局には50人の記者がいるとして、「ビデオジャーナリスト」といった職業も一般化していることですし、仕事を共通化するという合理化策としては、あり得るのではないでしょうか。
――ネットとの関わりについてはいかがでしょうか。各社とも苦戦しているようですが、収益源にする方法はありますか。

河内 新聞社が大挙してネットに押しかけても、ポータルサイト、ヤフー、グーグルといったプラットフォームに儲けられるだけですよ。ストレートニュースのように、いったん消費者に無料にしたものは、後から「お金くれ」と言っても無理です。そこで、新聞社にしかない情報を発信する有料の専門サイトを作れば良いのではないでしょうか。ロング・テールの考え方です。

例えば、農水省のクラブには大量の資料が配布されて、10以上の業界紙でも、その内容を全部は紹介し切れていない。ネットならば、業界紙よりも詳しい情報を発信できるはずです。「じゃがいも新聞」「まぐろ新聞」とか。細かい、ニッチな情報を掲載するサイトをつくって有料で読んでもらえるようにすれば、可能性はあるのではないでしょうか。「お金を払ってもらえるコンテンツ」は、存在するはずです。

新聞社は、凋落しているデパートのビジネスモデル。「すべてがそこにある」ということは「読みたいものが何もない」になりかねない。オール・イン・ワンの新聞の使命は終わったことを認識して、金になるニッチな細かい情報を配信するような形で出直すべきです。
――最後に、各社の取り組みをどう見ていますか。

河内 朝日は半期ベースで100億円の営業赤字(連結)を計上しました。社内の緊張感は大変なもので、「社内の引き締めのためにやったのか」と邪推するほどです。ただ内部留保が2000億円ある朝日だから赤字が出しやすかった、という面はあると思います。

毎日・産経も、08年9月中間期には、それぞれ26億円、11億円(いずれも単体ベース)の営業赤字を計上しています。

特に毎日新聞について言えば、08年6月に社長が交代したばかりで、「交代時には思い切ったことがしやすい」ということがあります。これを機会に、ウミを出し切りたい、という思いもあるのではないでしょうか。

朝日は、今回の赤字計上で、読売、日経との(かつては「ANY」とも呼ばれた)業務連携に弾みがつくのではないでしょうか。具体的には、「原料の共同購入・印刷工程、販売流通の共有化」が進むでしょう。「身を削ぐような合理化」で、3社合わせれば、1000億円台の経費削減ができるはずです。

朝日は、出版本部を別会社にしたのはえらいですよね。私は、毎日のメディア局を別会社にしようと考えていたのですが、中々上手くいかなかった。別会社になると、競争に放り込まれるので、必死になりますよね。動きが速くなるし、思い切った決断もできます。

新聞という仕事は「印刷工場を持っていて、販売店を持っていないとダメだ」ということではありません。新聞社の本分は「的確にニュースを取材し、意味づけをして送る」ということに尽きるのであって、別に「(活版印刷を発明したとされる)グーテンベルグと心中しないといけない」とは思いません。

問題は、上が持っている危機感を、社全体で共有していないこと。若い人は、構造不況業種と思っているから「危機慣れ」している。なかなか「自分の問題として」経営問題を考えようとしませんね。
<メモ:止まらない広告・販売収入の落ち込み>
日本ABC協会の調査によると、07年4月の段階では811万部あった朝日新聞の部数は08年4月には6万部減少して805万部。毎日新聞は400万部が10万部も落ち込み、390万部になり、ついに「400万部割れ」となった。読売・日経・産経の3社は、ほぼ横ばいだ。
一方、07年の新聞広告費(電通調べ)は9462億円で、06年に比べて5.2%落ち込んでいる。マス4媒体(新聞、雑誌、テレビ、ラジオ)の広告費は3兆5699億円で、前年比2.6%減にとどまっており、新聞広告の落ち込みの大きさがうかがえる。
このような経営環境の悪化を受けて、朝日・毎日・産経の3社が、08年9月中間期(08年4月~9月)の決算で、連結・単体ベースともに営業赤字を計上している。

河内孝さんプロフィール
かわち・たかし ジャーナリスト。1944年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。毎日新聞政治部、ワシントン支局、外信部長、社長室長、常務取締役などを経て2006年に退社。現在、(株)Office Kawachi代表、国際福祉事業団、全国老人福祉施設協議会理事。著述活動の傍ら慶應義塾大学メディアコミュニケーション研究所、東京福祉大学で講師を務める。

ネットで有名になり、新聞が売れる そんな好循環が中国では可能だ
(連載「新聞崩壊」第11回/中国メディア研究者 ミン大洪さんに聞く)
2009/1/ 9

新聞の発行部数が1日あたり1億を超える中国では、共産党幹部を読者とする人民日報などの政府機関紙に、読者離れが起きている。一方、その傘下にあるタブロイド紙は、百花繚乱の状況を呈し、全盛期を迎えている。中国の新聞の現状と未来をメディア研究者のミン大洪さんに聞いた。

政府機関紙は発行部数がどんどん減っている

「政府の管理はきちんとしています」と話すミンさん
――例年のことですが、年末に共産党機関紙の人民日報、国務院機関紙の経済日報は、拡販に力を入れました。それでも、あまり効果が出ていないようですね。

ミン 赤字で印刷した機関紙購読勧誘書が、地方自治体から数多く出されてました。省レベル、市レベル、さらに市の下にある県レベルからも出されています。機関紙を購読せよ、と命令するようなものですが、従う人は少ないようです。
中国では日本のABCのような、新聞発行部数を厳格に調べる機関はありません。自称の発行部数だけです。しかもそれは、新聞社の最高の機密とされています。新聞社の広告収入と直接関連するからでしょう。ただ、自称の発行部数でも、政府機関紙の発行部数は減り、あまり数字を公表しなくなりました。状況は厳しいはずです。
――政府機関紙以外の新聞の方が人気があるわけですね。

ミン 中国では1日に1億部以上の新聞が販売されています。世界中どこにもない規模です。新聞スタンドで自由に売買している新聞は、改革開放政策の中で出てきました。市民の注目を集め、あっという間に政府機関紙の市場を奪ってしまったのです。中国では「経営性の新聞」と呼んでいます。
若い読者は共産党の幹部、政府官僚を対象とする人民日報、経済日報にはほとんど興味はありません。
――政府機関紙はどうしようとしているのですか。

ミン 年末に、国務院の新聞出版署(局)で会議が開かれました。「経営性の新聞」と「公益性の新聞」(政府機関紙など)を分けて議論しました。政府機関紙はおそらく宣伝メディアとしてずっと必要であり、「公益性の新聞」と名前を変えて、残されていくだろうと思います。政府系新聞の発行部数の増加はあまり期待できないが、その傘下にある「経営性の新聞」が伸びれば何とかなるでしょう。
――つまり、人民日報の経営が成り立たなくても、傘下の環球時報がどんどん稼ぐ。それで安泰なわけですね。

ミン 中国には政府機関紙を中心に、85の新聞グループがあります。人民日報の下には若者に人気のある環球時報があります。同じ機関紙である光明日報の下にも、北京市民が愛読している新京報があります。これは、文化、芸能といった情報も盛り込んだ庶民的な新聞です。このように、機関紙の傘下のこれらのタブロイド紙は発行部数も多く、広告も入っていて、いずれも稼ぎ頭です。そのせいで、機関紙自体の経営も安泰です。
新聞のコンテンツは即刻ポータルに掲載される
――就職、火事の情報、伝染病の流行、盗難、俳優の私生活など、政府機関紙ではほとんど報道しない内容、市民の生活にかかわりのあるニュース、面白いニュースを流しています。しかし、一線を超えて、政府の見解と違う記事が出かねません。

ミン 政府の管理はきちんとしています。「経営性の新聞」でも、政府の見解と違う記事を作ってしまったら、それは政府機関紙の経営者、さらにその傘下の経営性新聞の経営者は責任を取らされると思います。
――「経営性の新聞」の経営は今後も安泰でしょうか。

ミン それは保障できません。競争は激しくなっているし、不動産や自動車産業にかげりが出たので、2008年の下半期から状況は一変しました。とりわけ広告について今年はどうなるか、あまり明るい展望は望めません。
――中国の多くの若者は、インターネットに熱中しています。

ミン シナネット(sina net)、ソーホーネット(Soho net)など中国では巨大なポータルサイトが発達しています。新聞で公表したコンテンツは即刻そこに掲載されます。いつでもどこでも読めます。一つのポータルサイトがあれば、なんでもそこから情報を引き出せます。
――外国では記事を全部ネットに掲載されると、新聞が売れなくなるという現象が起きています。

ミン 中国では状況は少々違います。若い読者はまずインターネットでニュースを読みます。自分の好きな記事を検索して読みます。その一方で、彼らはスタンドで新聞を買い、地下鉄でも自宅で読みます。インターネットに記事を掲載してしまうと、新聞が売れない、という現象はないのです。将来はわかりませんが。
新規創刊する新聞は、インターネットからも情報を発信しています。インターネットによって有名になり、今度は新聞の方がどんどん売れる、という好循環ができています。
――ネットに書き込みもする人がずいぶん多いですね。

ミン 昔、「大字報」(壁新聞)でしたが、今はインターネットの書き込みです。自由に発言しています。
――ただし、取材ができるポータルサイトは少ないですが。

ミン それで新聞は助かっている。ポータルサイトは掲載された記事をアップしていくだけです。新聞への依存度が高まっている、といってもおかしくありません。
ミン大洪さん プロフィール
Min Da-hong 1946年生まれ、中国社会科学院新聞研究所教授、中国インターネットメディア協会長。1981年から中国社会科学院新聞とコミュニケーション研究所に勤務、80年代にはコミュニケーション技術の、90年代からはインターネットの研究をした。インターネットおよびデジタルメディア研究室部長。
主な著作は、『数字伝媒概要』(デジタルメディア概要 2003年、復旦大学出版社)、『互聯網対社会政治影響研究』(インターネットが社会政治に対する影響の研究 2004年、国家社科基金項目)など多数。

再販、記者クラブ問題 新聞協会「当事者ではない」
(連載「新聞崩壊」第12回/新聞協会・新聞社の見解)
2009/1/13

連載の最後に当たり、2008年末から始まった連載の中で取り上げられた問題点について、「当事者」の新聞社や新聞協会はどう考えているのか聞いた。J-CASTニュースの取材に対する回答をまとめた。

「各クラブが自主的に運営している」
記者クラブと押し紙、再販制の問題については、社団法人「日本新聞協会」(会長、北村正任・毎日新聞会長)に取材した。同協会は、全国の新聞社や通信社、放送局140社が会員となっている。阿部裕行・総務部長と國府(こうの)一郎・編集制作部部長、富田恵・経営業務部部長らが交代しながら答えた。

まず協会の基本的な立場を「経営者団体でもなく、いわば倫理団体として発足した。ここで何かを決定する組織ではない」と説明した。

最初にJ-CASTニュース側は記者クラブ問題について質問した。記者クラブに関しては、協会の「編集委員会の見解」が公表されている。2002年にまとめられ、その後06年に一部改定されている。「見解」では、「取材・報道のための自主的な組織」などと記者クラブを位置付けている。また、「記者クラブは『開かれた存在』であるべき」「報道活動に長く携わり一定の実績を有するジャーナリストにも、門戸は開かれるべき」などとうたっている。

協会側は記者クラブについて、次のような説明をした。協会が示した「見解」は強制的なものではなく、全国にある各記者クラブが「見解に沿って」自主的に運営している。基本的にはクラブごとにルールをつくっている。クラブは、会員かオブザーバーかの違いはあるが「海外の方を含めて開放している」。勿論条件はあり、報道という公共的な目的を持ち、クラブ運営に支障がないことが必要だ。クラブ運営に支障がない、とは「取材活動を阻害しないこと」だ。記者クラブの数がいくつあるのか、合計何人が加盟しているのかは、許認可制ではないこともあり把握していない。ほとんどの記者会見には、記者クラブ加盟社以外の参加も認めているようだ。

以上の説明からすると、記者クラブとは、A省庁記者クラブやB県警記者クラブといったクラブごとに自主的な判断をする独立した組織ということのようだ。新聞協会も口出しできないし、ある1つの新聞社が決定権をもっているものでも勿論ない訳で、いわば治外法権的な組織といった所だろうか。また、オブザーバー参加とは多くの場合、会見に出ても質問する権利はないことを意味する。同協会が「見解」の中でもうたっている記者クラブが「『開かれた存在』であり続ける」という主張に対しては、元ニューヨークタイムズ東京支局取材記者で現在フリージャーナリストの上杉隆さんは、実態との乖離を指摘し、「ほとんどブラックジョークと見紛うほどである」と批判している。

「活字離れで国民のリテラシー低下が問題化」
次は押し紙問題について質問した。押し紙とは、新聞社が新聞販売店に対し、実際に読者に配られている部数より多い新聞を強制的に納入している、とされる行為だ。部数が多い方が広告価値が高い、という背景がある。その存在を指摘する声は少なくないが、独占禁止法で禁じられている行為でもあり、新聞社側は存在を認めていない。同協会は、次のような立場を明らかにした。

押し紙については、独占禁止法で禁じられ、公正取引委員会の告示で規定されている。独占禁止法を扱っているのは公正取引委員会で、「従って、新聞協会が取り扱える事項では毛頭ありません」。押し紙問題は、新聞協会が扱う事項ではない。「ノーコメントではなく、コメントできる立場ではない」

要するに、協会は当事者ではないので公正取引委員会に聞くべきでは、ということのようだ。そこでJ-CASTニュースは公正取引委員会に取材した。取引企画課によると、押し紙があった事実を認定して、押し紙をやめなさいという審決が1度出ている。1998年に北國新聞(石川県)に対して出された。ほかの新聞社はどうなのだろうか。「押し紙の事実に関して具体的な情報提供があれば、当然検討する」。実際に具体的な情報提供が現在あるのかどうかは、「具体的な案件は答えられない」としている。そして、一般論として、押し紙のような「優越的地位の濫用」事案は、被害者側(押し紙問題でいえば販売店)が、(新聞社からの)「報復を恐れて情報提供をしにくい状況はあるのではないか」との見方も示した。

最後は、再販制度について。再販制がなくなると新聞の価格競争が激しくなり、民主主義の基盤が揺らぐ、と新聞業界は制度維持を主張している。一方、制度を廃止し他業種と同じように自由に競争した方が消費者の利益になる、とする経済学者らの指摘がある。同協会は、再販制度と特殊指定を合わせ、広報資料を紹介しながらこの問題に対する見方を次のように示した。

公共性という点では新聞もトイレットペーパーも同じであると、一部の経済学者から指摘があった。しかし、新聞は民主主義の維持・発展と深くかかわる商品という点が他の商品と異なる。今のように同じ新聞はどこにいても同じ価格で提供できることが、民主主義社会の健全な発展を支える基盤となっている。新聞は、国民の「知る権利」に応える極めて公共性の高い商品性がある。制度がなくなり定価の割引が始まると、過疎地や高層住宅への配達に上乗せ料金が課されたり、配達そのものを拒否されたりしてしまうこともあり得る。そうした事態になれば言論の多様性確保の観点からも問題で、ゆえに再販制度と特殊指定は必要である。また、「活字離れによって国民のリテラシーが低下しているということが半ば社会問題化して」きている中、国も文字・活字文化振興法を定めた。こうした流れに逆行するような再販制・特殊指定廃止には反対だ。廃止を主張する立場からは「競争がない」と主張されるが、同じA新聞ならどこでも同じ価格ということであって、例えばA新聞とB新聞とは激しい競争をしている。現在の制度のもと、全国で5紙以上の新聞が読めるという多様性が確保されていることは正当に評価されていい。94%の新聞は戸別配達され、9割以上の人が戸別配達を支持している。紙の優位性が支持されている。

協会側の説明からは、同じ新聞なら全国どこでも同じ価格ということへのこだわりが垣間見える。再販制・特殊指定がなくなれば、都心部の人は今よりも安く新聞を買うことができるかもしれないが、過疎地などで値上げや配達拒否の動きが出て民主主義の基盤が揺らぎかねないので今の制度が必要だ、ということのようだ。しかし、各新聞社はインターネットで無料で多くの記事を配信している。「同じ価格」へこだわる姿勢と矛盾はないのだろうか。

この疑問に対して、協会側は、各新聞社がインターネットにどう対応するかは、各社の経営判断であり、紙の新聞を前提とした再販制度とは、リンクしないとの考えを示した。また、J-CASTニュース側は「例えば、東京で読む朝日新聞と大阪で読む朝日新聞、九州で読む朝日新聞は、掲載されている記事が全く同じという訳ではない」「特に1面と社会面では、例えば九州では載っているが、東京では1行も載っていないことも、その逆もある」と指摘した。その上で、東京の朝日新聞も九州の朝日新聞も「同じ新聞なら同じ価格」という文脈の中では、「同じ新聞」なのかと質問した。これに対し、協会側は「それは同じ新聞だろう」と説明した。

「見通しは公表しておりません」「回答を控えさせていただきたい」
また、J-CASTニュースは大手新聞社4社にも、今後の経営についての見通しを聞いてみた。具体的には(1)販売・広告収入は、どのように推移すると予測しているか。下落する場合、その対策はどうするのか(2)ネット事業で、どのようにして収益をあげるつもりなのか(3)新規事業を立ち上げて収益源にする予定はあるのか(4)仮に、これらの施策が不調に終わった場合、人員をリストラする予定はあるのか(5)中長期的に見た場合の事業の継続可能性はどうか、の5点について、質問状を送付した。

各社の回答は、経営の見通しについて公表を拒む姿勢を浮き彫りにするものだった。

例えば朝日新聞社は、質問項目別に回答を寄せたが、その内容はというと、(1)(2)については「見通しは公表しておりません」(3)は「様々な可能性について検討しております」(4)は「仮定の話については回答できません」(5)は「中長期的に見て事業の継続は可能だと考えております」と、事実上の「ゼロ回答」。

毎日新聞社は、

「当社は株式を上場しておりませんので、毎年6月の株主総会で株主に報告している事業報告以外に経営情報は公表しておりません」と、非上場であることを理由に、今後の見通しを明らかにしなかった。その上で、今後の取り組みについては「経済状況が厳しい中、当社は『論争のある』『分かりやすい』『役に立つ』をブランドの柱に、生活者の視点に立ち、読者に信頼される新聞を目指すとともに、デジタルメディア、出版、事業、放送、不動産部門などを含めたグループ経営の充実に力を入れていきます」
とのみコメント。具体的な内容については明らかにしなかった。

残りの2社は、

「質問内容が、公表していない事柄についての項目ばかりなので、今回については回答を控えさせていただきたい」(読売新聞社)

「今の時点でお答えできることはございません」(日経新聞社)
として、質問に回答すらしなかった。